RADWIMPSの『25コ目の染色体』。このタイトルを見たとき、あなたは何を感じましたか?
人間の染色体は、通常23対(46本)です。つまり、「25コ目」は存在しません。科学的には、あり得ない数字なのです。
でも野田洋次郎は、あえてこのタイトルをつけました。なぜか?それは、この曲が「不可能への願い」を歌っているからではないでしょうか。
科学では説明できない愛。理屈では成り立たない願い。でもそれでも願わずにはいられない、純粋で切ない想い——それが、この「25コ目の染色体」という存在しないものに託されているのだと、私は感じます。
「あなたがくれたモノ たくさん僕持ってる それを今ひとつずつ数えてる」
冒頭から、静かに、でも深い愛が語られます。「数えてる」——その一つ一つを、大切に記憶している。忘れないように、数えている。
- 「1,2,3個目が涙腺をノックする 131個目が瞼にのったよ」という、具体的な記憶
- 「I will die for you, and I will live for you」という、究極の愛の誓い
- 「あなたが死ぬその まさに一日前に 僕の 息を止めてください」という、一生のお願い
- 「この場所と天国の丁度真ん中 月から手のばすあのあたりかな」という、距離感
- 「次の世の僕らはどうしよう」という、来世への提案
- 「I will cry for you because you’re the told me how」という、涙の理由
- 「いつか生まれる二人の命 100%君の遺伝子」という、三つ目の願い
- タイトル『25コ目の染色体』が示す、愛の不可能性と普遍性
- まとめ:不可能を願う純粋さこそが、愛の証
「1,2,3個目が涙腺をノックする 131個目が瞼にのったよ」という、具体的な記憶

そして、印象的な数字が登場します。
「1,2,3個目が涙腺をノックする 131個目が瞼にのったよ」
「3個目」で涙腺をノックして、「131個目」で涙が瞼にのる。この具体的な数字が、リアリティを生んでいます。
私は、この数字に意味があるとは思いません。むしろ、数えきれないほどたくさんの思い出があって、その一つ一つが愛おしくて、涙が出てくる——その感覚を表現するための、詩的な数字なのだと感じます。
「忘れてた泣き方 でも 今ここにある何か 目を閉じても零れそうな気がして」
「忘れてた泣き方」——これは、感動や幸せで泣くこと、あるいは愛する人を想って泣くことを忘れていた、ということでしょうか。
「目を閉じても零れそう」——止められない涙。感情が溢れ出している状態。
そして、サビが来ます。
「I will die for you, and I will live for you」という、究極の愛の誓い

「I will die for you, and I will live for you I will die for you, there is nothing more that I could really say to you」
「I will die for you」——君のために死ねる。 「I will live for you」——君のために生きる。
この二つは、普通なら矛盾します。死ぬことと生きることは、正反対です。でもこの曲では、両方が同時に成り立つのです。
君のためなら死ねるし、君のために生きる。どちらも真実。それが愛なのだと。
「there is nothing more that I could really say to you」——これ以上言えることは何もない。この二つの言葉が、すべてを語り尽くしている、と。
私は、この英語の使い方に野田洋次郎の繊細さを感じます。日本語で「死ねる」「生きる」と言うより、英語で「I will die for you」と言う方が、重すぎず、でも確かに重い。そのバランスが絶妙なのです。
「あなたが死ぬその まさに一日前に 僕の 息を止めてください」という、一生のお願い

そして、この曲で最も切ない願いが語られます。
「あなたが死ぬその まさに一日前に 僕の 息を止めてください これが一生のお願い」
愛する人の死を見たくない。その苦しみを味わいたくない。だから、一日前に自分を死なせてください、と。
これは、究極の愛の形ではないでしょうか。自分が先に死ぬことで、相手を失う痛みから逃れる。でもそれは同時に、相手に自分の死を看取らせることでもあります。
つまり、自分の苦しみを選ぶか、相手の苦しみを選ぶか。その葛藤の末に、「自分が先に死にたい」と願う。それが、ここには表れているのです。
「あなたが生きるその最後の日に僕は ソラからこの世が何色に染まるか当てたいんだ」
そして、先に死んだ後の自分を想像します。
「ソラ」——カタカナで書かれることで、天国というよりも、物理的な空のようでもあり、でも抽象的な場所のようでもある、不思議な距離感が生まれています。
「この世が何色に染まるか当てたい」——君が死ぬ日、この世界はどんな色に見えるのか。空から、それを見守りたい。
私は、この発想に野田洋次郎らしい詩的な美しさを感じます。死別という最も辛い瞬間を、「色を当てる」という優しい言葉で表現する。その転換が、救いになっているのです。
「この場所と天国の丁度真ん中 月から手のばすあのあたりかな」という、距離感

そして、自分がいる場所を想像します。
「この場所(ここ)と天国の丁度真ん中 月から手のばすあのあたりかな」
天国でもなく、この世でもなく、その「丁度真ん中」。月のあたり。
この距離感が、とても切ないと私は感じます。完全に離れたくない。でも、一緒にはいられない。だから、中間地点で、君を見守る。
「あそこから見える景色 目を閉じても覗けそうな気がして」
そしてこの一行が、冒頭の「目を閉じても零れそうな気がして」と呼応しています。目を閉じることで見えてくる何か——それは、想像であり、願いであり、愛なのです。
「次の世の僕らはどうしよう」という、来世への提案

そして二番では、さらに壮大な想像が広がります。
「次の世の僕らはどうしよう 生まれ変わってまためぐり合ってとかは もうめんどいからなしにしよう 一つの命として生まれよう」
「生まれ変わってまためぐり合う」——これは、よくある来世の約束です。でも野田洋次郎は、「もうめんどいから」と言う。
この「めんどい」という口語が、絶妙だと私は思います。ロマンチックな約束を、あえて日常的な言葉で崩す。その軽さが、かえって真剣さを感じさせるのです。
そして提案します。「一つの命として生まれよう」と。
「そうすりゃケンカもしないですむ どちらかが先に死ぬこともない」
二人が一つの命になれば、ケンカもない。片方が先に死ぬこともない。すべての問題が解決する。
でもそれは、科学的には不可能です。まさに「25コ目の染色体」のように、あり得ない願い。でもそれでも願わずにはいられない。
私は、この発想に野田洋次郎の純粋さを感じます。理屈を超えて、ただ「一緒にいたい」という願いが、こんな形になって現れるのです。
「そして同じ友達を持ち みんなで祝おうよ誕生日 あえてここでケーキ二つ用意 ショートとチョコ そこに特に意味はない」
一つの命だけど、ケーキは二つ。「そこに特に意味はない」と言いながら、でも二つ用意する。この矛盾が、可愛らしいと私は感じます。
一つになりたいけど、でもやっぱり二人でいたい。その両方の願いが、ここには込められているのです。
「ハッピーな時は2倍笑い 2倍顔にシワを残すんだい これが僕の2番目のお願い 2つ目の一生のお願い」
「2倍笑い 2倍シワを残す」——一つの命だけど、喜びは二倍。二人分の幸せを、一つの命で感じる。
「2番目のお願い 2つ目の一生のお願い」——一つ目は「一日前に死なせて」でした。二つ目は「一つの命として生まれよう」。どちらも、一生に一度だけのお願い。その重さと、軽さが同居しているのです。
「I will cry for you because you’re the told me how」という、涙の理由

そして、サビが再び繰り返されますが、少し変化します。
「I will cry for you because you’re the told me how」
「君が教えてくれたから、君のために泣ける」——この一行が、とても重要だと私は感じます。
涙の流し方を忘れていた。でも、君が教えてくれた。だから今、君のために泣ける。その感謝と、愛が込められています。
「いつか生まれる二人の命 100%君の遺伝子」という、三つ目の願い

そして三番では、子どもへの願いが語られます。
「いつか生まれる二人の命 その時がきたらどうか君に そっくりなベイビーであって欲しい 無理承知で100%君の遺伝子」
「100%君の遺伝子」——これも、科学的には不可能です。子どもは、両親から50%ずつ遺伝子を受け継ぎます。100%片方だけ、ということはあり得ません。
でもそれでも願う。君にそっくりな子どもであってほしい、と。
「伝わりますように 俺にはこれっぽっちも似ていませんように 寝る前に毎晩 手を合わせるんだ」
「俺には似ていませんように」——この謙虚さ、あるいは自己否定が、切ないと私は感じます。
自分よりも、君の方が素晴らしい。だから、子どもには君に似てほしい。その思いが、「毎晩手を合わせる」ほど真剣なのです。
「そんなこと言うといつも 君は僕に似てほしいなんて言うの そんなのは絶対いやだよ」
そして、二人の会話が想像されます。君は「僕に似てほしい」と言う。でも「絶対いやだ」と答える。
この掛け合いが、微笑ましいと同時に、お互いを思い合う姿が美しいと私は感じます。
「強いて言うなら俺のこの ハッピー運とラッキー運だけは一つずつ染色体に のせて あげて ほしいな」
そして最後、小さな願いが語られます。
「ハッピー運とラッキー運」——自分の良いところは、それくらいだから。でもそれだけは、子どもにあげたい。
「一つずつ染色体にのせて」——ここで、タイトルの「染色体」が回収されます。
科学的には24対の染色体しかないけれど、もし「25コ目」があるなら、そこに自分の「ハッピー運」と「ラッキー運」をのせて、君の100%の遺伝子と一緒に、子どもに渡したい。
その不可能な願いが、この曲のタイトルになっているのです。
タイトル『25コ目の染色体』が示す、愛の不可能性と普遍性

最後に、もう一度タイトルについて考えてみたいと思います。
『25コ目の染色体』——存在しない染色体。
でもそこに、自分の一番良いところをのせて、愛する人の100%の遺伝子と一緒に、子どもに渡したい。
この曲は、不可能への願いを歌っています。
「一日前に死にたい」 「一つの命として生まれたい」 「100%君の遺伝子を持つ子どもがほしい」
どれも、科学的には不可能です。でも、愛する人を想う時、私たちはそんな不可能を願わずにはいられない。
その純粋さ、その切なさが、「25コ目の染色体」という存在しないものに象徴されているのだと、私は感じます。
愛とは、不可能を願うことなのかもしれません。でもその不可能な願いこそが、愛を永遠にするのです。
まとめ:不可能を願う純粋さこそが、愛の証

今回は、RADWIMPSの『25コ目の染色体』の歌詞に込められた想いを考察してきました。最後に、この記事のポイントをまとめてみましょう。
存在しない染色体への願い 科学的にあり得ない「25コ目」に、自分の良いところをのせたいという不可能な願い。
一日前に死にたい 愛する人の死を見たくない、その苦しみから逃れたいという、究極の愛の形。
一つの命として生まれたい ケンカもせず、どちらかが先に死ぬこともない、完全な一体化への願い。
100%君の遺伝子 子どもには、自分ではなく君に似てほしいという、謙虚で純粋な願い。
「めんどい」という軽さ 重いテーマを、あえて軽い言葉で語ることで生まれる、真剣さ。
「I will die for you, and I will live for you」 死ぬことと生きることの矛盾を、同時に受け入れる愛の深さ。
『25コ目の染色体』は、愛の不可能性を歌った曲です。でもその不可能性こそが、愛の本質なのかもしれません。
科学では説明できない感情。理屈では成り立たない願い。でもそれでも願わずにはいられない。
「もうめんどいから」「絶対いやだよ」——こんな日常的な言葉の中に、深い愛が隠されている。その野田洋次郎らしい表現が、この曲を特別なものにしているのです。
あなたには、不可能を願うほど愛する人がいますか?「25コ目の染色体」に何をのせたいですか?もしそんな願いがあるなら、それは愛の証なのかもしれません。
不可能だからこそ美しい。叶わないからこそ、永遠に願い続けられる。それが、愛なのですから。


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