RADWIMPS『ピリオド。』歌詞の意味を徹底考察|怒りと拒絶、そして「終わり」を打つ勇気

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RADWIMPSの『ピリオド。』。このタイトルを見たとき、あなたは何を感じましたか?

ピリオド——文章の終わりを示す記号です。そして、タイトルの最後にも「。」がついている。つまり、「終わり。」ということを二重に宣言しているのです。

この曲を初めて聴いたとき、私は驚きました。いつもの野田洋次郎らしい詩的で哲学的な歌詞ではなく、むき出しの怒りと拒絶が、ストレートに叩きつけられているからです。

「まじでいらねぇ まじで知らねぇ まじで汚ねぇ やつにはなんねぇ」

この直接的な否定の言葉。繰り返される「まじで」という口語。これは、感情が理性を超えて溢れ出している状態を表しているのではないでしょうか。

この曲は、誰かに対する怒り、あるいは自分自身に対する決別を歌っているように私は感じます。そして、その感情に「ピリオド」を打つ——つまり、終わらせる決意を表明している曲なのです。

「まじでいらねぇ」という、容赦ない拒絶

冒頭から繰り返される、

「まじでいらねぇ まじで知らねぇ まじで汚ねぇ やつにはなんねぇ まじで何年経っても忘れたりなんかしねぇ はよ消え去って」

というフレーズ。

この「まじで」の連続が、怒りの強さを表しています。冷静ではいられない。理性的に言葉を選んでいる余裕はない。ただ、ストレートに感情をぶつけるしかない。

「いらねぇ」「知らねぇ」——完全な拒絶です。そして「汚ねぇ やつにはなんねぇ」——お前のような汚い人間には、絶対にならない、という決意。

私は、この「汚ねぇ やつにはなんねぇ」という言葉に、強い自己防衛を感じます。誰かに傷つけられた経験、裏切られた経験。そして、その人のようにはなりたくない、という強い意志。

「まじで何年経っても忘れたりなんかしねぇ はよ消え去って」

許さない、という宣言です。時間が経っても、忘れない。だから、目の前から消えてくれ、と。

この感情は、深く傷ついた人間だけが持つものではないでしょうか。許せないほどの何かがあった。そしてその傷は、時間では癒えない。

「なんでしたっけ 愛でしたっけ?」という、皮肉と自己防衛

そして続く歌詞で、トーンが少し変わります。

「なんでしたっけ 愛でしたっけ? それなら充分持ってる パス」

この「なんでしたっけ」という、わざとらしい忘れ方。これは明らかに皮肉です。愛なんて知らない、興味ない、という態度。

「それなら充分持ってる パス」——愛ならもう持っているから、これ以上いらない。そんな拒絶の仕方です。

私は、この歌詞に自己防衛を感じます。本当は傷ついているのに、「愛なんていらない」と強がる。その痛々しさが、この皮肉には込められているのではないでしょうか。

「はじめまして Monday Tuesday 元気がないから話しかけんで バイナラじゃあね」

月曜日、火曜日——週の始まり。新しい一週間が始まっても、「元気がないから話しかけんで」と拒絶する。

「はじめまして」と言いながら、すぐに「バイナラじゃあね」。出会ってすぐに別れを告げる。つまり、誰とも関わりたくない、という心の閉ざし方です。

「誰といたいかは俺が決めんねん」という、自己決定の権利

そして、曲の核心が語られます。

「何から何まで自分の 思い通りになんかいかん そんなことは知ってるけど 誰といたいかは俺が決めんねん」

「思い通りになんかいかん」——人生は、思い通りにならないことだらけです。それは、誰もが知っている真実。

「そんなことは知ってるけど」と前置きした上で、「誰といたいかは俺が決めんねん」と断言する。

私は、この歌詞に強い意志を感じます。人生のすべてをコントロールすることはできない。でも、せめて誰と一緒にいるか、誰と関わるか——それだけは自分で決める権利がある。

「1000年経っても気は変わらんから ええねん ほっといてくれたら神様」

「1000年経っても」という誇張が、決意の強さを表しています。そして「神様」に向かって、「ほっといてくれ」と言う。

これは、運命や宿命に対する反抗でもあるのでしょう。神様が決めた運命であっても、自分の気持ちは変わらない。だから、干渉しないでくれ、と。

「アイツとオイラを同じ時空にぶち込むとか どんなセンスしてんねん」

ここで「アイツ」という言葉が出てきます。つまり、特定の誰かがいるのです。

その誰かと自分を「同じ時空にぶち込む」神様のセンスを疑っている。出会わせたことを恨んでいる。それほどまでに、その相手を拒絶しているのです。

「勘弁したって」なんて言ったって」という、許しの拒否

そして二度目のサビでは、さらに強い言葉が加わります。

「『勘弁したって』 なんて言ったって するわけねぇだろ 末代まで祟られたって 笑って歓迎」

「勘弁したって」——つまり、相手が謝罪や許しを求めてきても、という想定です。でも「するわけねぇだろ」と完全に拒否する。

「末代まで祟られたって 笑って歓迎」——この強烈な言葉。

末代まで祟る、つまり永遠に呪う、という脅しさえも、「笑って歓迎」する。それほどまでに、許すつもりはない。むしろ、呪われることすら受け入れる覚悟がある、という宣言です。

私は、この歌詞に、傷の深さを感じます。ここまで強い拒絶の言葉を使わなければならないほど、深く傷ついたのでしょう。

「オイラの人生からはよ出てけ バイナラじゃあね」

最後の「バイナラじゃあね」——これが、タイトルの「ピリオド。」なのです。

さようなら。もう終わり。これで最後。そういう明確な終止符を、ここで打つのです。

この曲が描く「終わらせる勇気」の意味

『ピリオド。』は、RADWIMPSの中でも異色の曲です。詩的な比喩も、哲学的な問いかけもほとんどない。ただ、むき出しの感情がストレートに表現されている。

でも私は、この曲にとても重要なメッセージがあると感じます。それは、「終わらせる勇気」です。

人間関係において、私たちは時に「許すべきだ」「水に流すべきだ」というプレッシャーを感じます。恨み続けることは、大人げないとされます。

でもこの曲は、そんな常識を拒否します。許せないものは許せない。忘れられないものは忘れられない。それでいいんだ、と。

「まじで何年経っても忘れたりなんかしねぇ」

この宣言は、一見ネガティブに見えるかもしれません。でも、自分の感情に正直であることの大切さを、この曲は教えてくれているのではないでしょうか。

無理に許そうとするのではなく、「終わり」を宣言する。ピリオドを打つ。そうやって前に進む方法もある。

「誰といたいかは俺が決めんねん」

この言葉が示すのは、自己決定の権利です。誰と関わるか、誰を人生から排除するか——それを決めるのは自分自身。他人でも、神でもない。

私は、この曲に救われる人がいると思います。許せない誰かがいる人、関係を断ち切りたいのに断ち切れない人。そんな人たちに、この曲は「終わらせていいんだよ」と言ってくれているのです。

タイトルの「。」が持つ、日本語としての意味

最後に、タイトルについてもう一度考えてみたいと思います。

『ピリオド。』——ピリオドは英語で「終止符」を意味します。そして、その後に日本語の句点「。」がついている。

つまり、英語でも日本語でも、二重に「終わり」を宣言しているのです。この執拗さが、もう後戻りしない、という決意を表しているのではないでしょうか。

また、日本語の「。」は、文章の最後につけるものです。何かを書き終えた時、最後に「。」を打つ。それによって、その文章は完結します。

この曲も、ある関係、ある感情、ある時期に対して、「。」を打っている。完結させている。もう続きはない、と宣言しているのです。

まとめ:終わらせることも、前に進むこと

今回は、RADWIMPSの『ピリオド。』の歌詞に込められた想いを考察してきました。最後に、この記事のポイントをまとめてみましょう。

容赦ない拒絶の言葉 「まじでいらねぇ」「まじで知らねぇ」——理性を超えた、むき出しの感情。深い傷から生まれた拒絶。

自己防衛としての強がり 「愛でしたっけ?それなら充分持ってる パス」——傷ついているからこその、皮肉と拒絶。

自己決定の権利 「誰といたいかは俺が決めんねん」——人生のすべてはコントロールできなくても、これだけは自分で決める。

許しの拒否 「勘弁したって」なんて言ったって するわけねぇだろ」——許すべきだというプレッシャーへの反抗。

明確な終止符 「バイナラじゃあね」「ピリオド。」——もう終わり、という明確な宣言。

『ピリオド。』は、許しや和解を美徳とする社会において、あえて「許さない」「終わらせる」という選択肢を示してくれる曲です。

すべての関係を修復する必要はありません。すべての人を許す必要もありません。自分を傷つけた人、自分の人生にとって有害な人とは、関係を断ち切っていい。

それは逃げではなく、自己防衛であり、自己尊重です。そして、新しい人生へのステップなのです。

「オイラの人生からはよ出てけ バイナラじゃあね」

この言葉を言える勇気。ピリオドを打てる強さ。それを持つことが、時には必要なのかもしれません。

あなたの人生にも、ピリオドを打ちたい何かがありますか?もしあるなら、それを終わらせることを、自分に許してあげてもいいのかもしれません。終わらせることも、前に進むことなのですから。

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