- なぜこの曲は、傷だらけの私たちに「それでいい」と言ってくれるのか
- 「美しい数字が増えるように」という祈りに込められた、時間という財産への複雑な想い
- 「思い出の宝庫 古いものは棚の奥に埃を被っているのに誇りが光って見える」という記憶の二重性が語る矛盾
- 「されどBy my side」という逆接が切り開く、孤独の中にある確かな何かへの気づき
- 「不安 喝采 連帯 濁ったりの安全地帯」が映し出す、青春期特有の感情の濁流と居場所への渇望
- 「グワングワンになる朝方の倦怠感」という擬音が生々しく伝える、夜を明かした身体の重さと虚無
- 「三番ホーム 準急電車 青に似たすっぱい春とライラック」が描く、待ち合わせの情景に漂う甘酸っぱい青春の空気
- 「痛みだす人生単位の傷も愛おしく思いたい」という願いが示す、傷を否定せず受け入れる覚悟の萌芽
- 「探す宛ても無いのに忘れてしまう僕ら」という矛盾が浮き彫りにする、人間の記憶の不条理と喪失への諦め
- 「一回だけのチャンスを見送ってしまう事が無いように 踵を浮かしていたい」という決意に潜む、臆病さと勇気の綱引き
- 「主人公の候補くらいに自分を思っていたのに 名前も無い役のよう」という挫折が告白する、自己像の崩壊と無名性への絶望
- 「たかがBy my side くだらない愛を歌う際 嘘つきにはなりたくない」という矜持が守る、表現者としての誠実さへの執着
- 「ワサワサする胸 朝方の疎ましさ」という生理的表現が剥き出しにする、若さゆえの衝動と自己嫌悪の同居
- 「ズラして乗る 急行電車」という小さな反抗が象徴する、ルールからの微細な逸脱と自己主張
- 「影が痛い 価値なんか無い 僕だけが独りのような夜が嫌い 君が嫌い」という叫びが吐露する、自己否定と他者への憎悪の混濁
- 「光が痛い 希望なんか嫌い」という逆説が明かす、眩しすぎる未来への恐怖と現状維持への執着
- 「我儘が拗れた美徳 不完全な思いも如何せん大事にしたくて」という覚悟が切り開く、欠点を宝物に変える錬金術
- 「クソみたいな敗北感もどれもこれもが僕を突き動かしてる」という真実が暴く、ネガティブな感情の持つポジティブな力
- 「鼓動が揺らすこの大地とハイタッチ」という肯定が宣言する、生きている実感との和解と祝福
- 「全て懸けた あの夏も色褪せはしない 忘れられないな 今日を生きる為に」という回想が結ぶ、過去と現在を繋ぐ意味の連鎖
- 「探す宛ても無いのに失くしてしまう」という繰り返しが問いかける、喪失の連鎖と意味への探求
- 「雨が降るその後に緑が育つように 意味のない事は無いと信じて 進もうか」という希望が芽生える、自然の摂理への信頼
- 「答えがない事ばかりだからこそ愛そう」という逆説が導く、不確実性を抱きしめる勇気の獲得
- 「あの頃の青を覚えていようぜ」という呼びかけが守ろうとする、初心と純粋さという名の武器
- 「苦味が重なっても光ってる」という発見が証明する、経験値としての苦しみの価値
- 「割に合わない疵も認めてあげようぜ」という宣言が解放する、コスパ思考からの自由と傷の肯定
- 「僕は僕自身を愛してる 愛せてる」という到達点が完成させる、不完全な自己への全肯定の宣言
- Mrs. GREEN APPLEが描く「不完全さの讃歌」という新しい青春像
- まとめ:傷だらけのあなたへ、それでも愛せると伝えたい
なぜこの曲は、傷だらけの私たちに「それでいい」と言ってくれるのか
Mrs. GREEN APLEの『ライラック』を初めて聴いたとき、私は大森元貴さんの言葉選びの大胆さに圧倒されました。
「クソみたいな敗北感」「名前も無い役」「ワサワサする胸」。
こんな生々しく、時に品のない言葉を、ここまで美しいメロディーに乗せて歌える人は、他にいないと思います。
そして、この曲の核心にあるのは、完璧じゃない自分を愛するという、とても難しいテーマです。
傷だらけで、不完全で、名もなき存在のような自分。
でも、だからこそ愛おしい。だからこそ、今日を生きられる。
タイトルの「ライラック」は、春に咲く紫色の花です。甘い香りを放つ美しい花ですが、その花言葉は「青春の喜び」「初恋の思い出」。
つまり、この曲は青春そのものを歌っているんです。
傷つきながら、迷いながら、それでも前に進む。そんな不器用な青春を。
この記事では、『ライラック』の歌詞に込められた深い意味を、一つひとつ丁寧に読み解いていきます。
あなたの中にある「クソみたいな敗北感」も、きっと愛おしく思えてくるはずです。
「美しい数字が増えるように」という祈りに込められた、時間という財産への複雑な想い

冒頭で歌われるのは、命の有限性についてです。
日々、寿命という限りある数字が減っていく。
これは、誰もが知っている真実ですが、普段は意識しないようにしている事実でもあります。
でも大森さんは、その減っていく数字を直視します。
そして、同時に「美しい数字が増えるように」と願うんです。
減っていく数字。増えていく数字。
前者は残りの寿命、後者は生きてきた日数や、積み重ねた経験や思い出でしょう。
私はこの対比に、人生に対する二つの見方が示されていると感じます。
残りの人生を数えて焦るのか。それとも、積み重ねてきたものを数えて誇るのか。
大森さんは、後者を選ぼうとしています。
減っていくものを嘆くのではなく、増えていくものを美しいと思いたい。
その姿勢が、この曲全体を貫いているテーマなのです。
「思い出の宝庫 古いものは棚の奥に埃を被っているのに誇りが光って見える」という記憶の二重性が語る矛盾

続く部分では、思い出という宝物について歌われます。
古い思い出は、棚の奥に埃を被っている。
つまり、忘れられかけている。日常では思い出さない。
でも、「誇りが光って見える」と続きます。
ここで「埃(ほこり)」と「誇り(ほこり)」という同音異義語が使われているのが、絶妙だと私は思います。
埃まみれで忘れられているのに、それでも誇りとして光っている。
この矛盾こそが、人間の記憶の不思議さを表しているのです。
辛かった経験、失敗した過去、恥ずかしい思い出。
当時は埃のように汚らしく感じたかもしれない。
でも、時間が経つと、それすらも誇りに変わる。
「あの時があったから、今の自分がある」と思えるようになる。
この記憶の錬金術が、「埃」と「誇り」という言葉遊びで表現されているのです。
そして、「光って見えるように」という願いも重要です。
まだ完全には光って見えていない。でも、そう見えるようになりたい。
過去のすべてを、誇りとして受け入れられるようになりたい。
その途上にある自分を、正直に歌っているのだと思います。
「されどBy my side」という逆接が切り開く、孤独の中にある確かな何かへの気づき

「されどBy my side」という短いフレーズ。
でも、この「されど」が重要だと私は感じます。
前の部分で、命は有限で、思い出は埃を被っていると、ネガティブなことが並べられました。
でも、「されど」。
それでも、誰か(何か)が側にいる。
この逆接によって、曲の雰囲気が一気に変わるんです。
絶望の中にも、救いがある。
孤独を感じていても、実は一人じゃない。
そんな希望が、この小さな言葉に込められています。
そして、「By my side」が英語であることも、意味があると思います。
日本語で「側にいる」と言うより、英語で言うことで、ちょっとだけ照れ隠しのニュアンスが生まれる。
ストレートに感情を出すのは恥ずかしいけど、でも伝えたい。
そんな若者らしい不器用さが、この言語の選択に表れている気がします。
「不安 喝采 連帯 濁ったりの安全地帯」が映し出す、青春期特有の感情の濁流と居場所への渇望

ここから、感情の羅列が始まります。
不安、喝采、連帯、そして「濁ったりの安全地帯」。
この四つの言葉の選び方が、とても巧みだと私は思います。
不安は、未来への恐れ。
喝采は、認められたいという承認欲求。
連帯は、誰かとつながりたいという孤独からの逃避。
そして、濁ったりの安全地帯。
これが一番興味深いです。
「濁ったり」というのは、清潔でも純粋でもない状態。
つまり、完璧じゃない、むしろちょっと汚れた場所。
でも、それが「安全地帯」なんです。
清く正しい場所は、実は居心地が悪い。
むしろ、ちょっと濁っていて、不完全な場所の方が、安心できる。
この逆説が、青春期の真実を突いていると思います。
大人たちが用意した「正しい場所」よりも、自分たちで見つけた「濁った場所」の方が、本当の意味での居場所になる。
そんな若者の心理が、この短いフレーズに凝縮されています。
「グワングワンになる朝方の倦怠感」という擬音が生々しく伝える、夜を明かした身体の重さと虚無

「グワングワン」という擬音。
これは、頭が重く揺れる感じ、あるいは世界がぐらぐらする感じを表しているのでしょう。
朝方まで起きていた後の、あの独特の倦怠感。
身体が重くて、頭がぼんやりしていて、でも眠れなくて。
そんな状態を、「グワングワン」という造語で表現する。
この言葉の生々しさが、Mrs. GREEN APPLEの魅力だと私は思います。
綺麗な言葉だけで歌を作らない。
時には、辞書にない言葉を作ってでも、リアルな感覚を伝えようとする。
そして、この倦怠感は、ただの疲れではないんです。
何かをやり遂げた後の心地よい疲労感ではなく、無為に時間を過ごした後の虚無感。
それが「倦怠感」という言葉に込められています。
青春とは、そういう無駄な時間の連続でもあるんです。
意味のない夜更かし、目的のない会話、行き先のない散歩。
でも、その無駄こそが、後から振り返ると宝物になる。
そんな逆説を、この一行は示唆していると感じます。
「三番ホーム 準急電車 青に似たすっぱい春とライラック」が描く、待ち合わせの情景に漂う甘酸っぱい青春の空気

ここで、具体的な場所の描写が入ります。
三番ホーム、準急電車。
この具体性が、情景を一気にリアルにします。
特急でも各駅でもなく、「準急」。
この中途半端さが、いいんです。
青春も、準急電車のようなもの。
急ぎすぎず、でも遅すぎず。
目的地には向かっているけど、すべての駅には止まらない。
そんな微妙な速度で、人生を進んでいく。
そして、「青に似たすっぱい春」という表現。
青は、未熟さの色。青二才という言葉があるように。
春は、始まりの季節。でも、「すっぱい」。
甘いのではなく、酸っぱい。
これは、初恋や青春の、あの独特の感覚を表していると思います。
甘いだけじゃない。むしろ、ちょっと痛くて、苦くて、酸っぱい。
そんな複雑な感情が、「すっぱい春」という言葉に込められています。
そして、ライラック。
紫色の花。甘い香り。でも、その香りは少し重い。
春の象徴でありながら、どこか憂鬱さも含んでいる花。
そんなライラックと、「君を待つ」という行為。
待ち合わせの情景が、この短いフレーズで完璧に描かれていると私は思います。
「痛みだす人生単位の傷も愛おしく思いたい」という願いが示す、傷を否定せず受け入れる覚悟の萌芽

ここで、この曲の重要なテーマが明示されます。
人生単位の傷。
つまり、簡単には癒えない、深い傷。
一生背負っていくような、大きな傷。
そんな傷も、「愛おしく思いたい」と言うんです。
「思う」ではなく、「思いたい」。
つまり、まだ完全には思えていない。でも、そう思えるようになりたい。
この正直さが、私は好きです。
多くの歌は、「傷も美しい」と断定します。
でも、大森さんは「思いたい」と、願望形で歌う。
今はまだ痛い。まだ辛い。まだ受け入れられない。
でも、いつかはこの傷も愛おしく思えるようになりたい。
その途上にある自分を、隠さずに歌っているんです。
そして、「痛みだす」という表現も重要です。
傷は、時間が経てば癒えるものだと思われがちです。
でも、実際には、時間が経ってから「痛みだす」こともある。
当時は何とも思わなかったことが、後から痛みとして現れる。
その遅れてくる痛みも含めて、人生なんだと。
そう言っているような気がします。
「探す宛ても無いのに忘れてしまう僕ら」という矛盾が浮き彫りにする、人間の記憶の不条理と喪失への諦め

ここで歌われる矛盾。
探す宛てもないのに、忘れてしまう。
これは、とても深い洞察だと私は思います。
本当に大切なものは、失くしてから気づく。
でも、失くした時には、もう探す場所すらわからない。
そして、時間が経つと、それすらも忘れてしまう。
何を失くしたのかすら、覚えていない。
この人間の記憶の不条理さ、無責任さが、ここには描かれています。
そして、「僕らは何を経て 何を得て 大人になってゆくんだろう」という問い。
これは、成長とは何かという根本的な問いです。
何かを経験して、何かを得て、それで大人になる。
でも、何を経て、何を得たのか、実はよくわからない。
気づいたら大人になっていた。
子どもの頃に思い描いていた「大人」とは違う、不完全な大人に。
その違和感が、この問いには込められていると感じます。
「一回だけのチャンスを見送ってしまう事が無いように 踵を浮かしていたい」という決意に潜む、臆病さと勇気の綱引き

ここで、前向きな決意が語られます。
一回だけのチャンス。
それは、恋のチャンスかもしれないし、夢を追うチャンスかもしれない。
人生には、二度と来ないチャンスがある。
それを見送らないように、いつでも準備していたい。
「踵を浮かしていたい」という表現が、とても具体的で良いですね。
スタートダッシュの姿勢。いつでも走り出せるように、踵を浮かせている。
でも、続けて「だけども難しいように」と認める。
この正直さが、またリアルです。
いつでも準備していたい、と思う。
でも、実際には難しい。
疲れるし、続かないし、気が緩む瞬間もある。
その人間らしさを、隠さずに歌う。
理想と現実のギャップを認めながら、それでも理想を持ち続ける。
その姿勢が、この曲全体を貫いています。
「主人公の候補くらいに自分を思っていたのに 名前も無い役のよう」という挫折が告白する、自己像の崩壊と無名性への絶望
ここで、大きな挫折が語られます。
自分は主人公だと思っていた。
少なくとも、主人公の「候補」くらいには。
でも、実際には「名前も無い役」のようだった。
この落差が、痛いです。
誰もが、子どもの頃は自分が主人公だと思っています。
自分の人生の物語は、自分が中心にある。
でも、大人になると気づく。
世界には無数の人がいて、自分はその中の一人にすぎない。
名前も呼ばれない、背景のような存在。
そして、「スピンオフも作れないよな」という自嘲。
スピンオフとは、脇役を主役にした派生作品のこと。
つまり、自分は脇役としてすら魅力がない、と言っているんです。
主役にもなれず、脇役としても面白くない。
この自己否定が、とても切ないです。
でも、だからこそ、この曲は多くの人に刺さるのだと思います。
誰もが感じている、この「名もなき感」。
それを、ここまで率直に歌う勇気。
それが、Mrs. GREEN APPLEの強さなのです。
「たかがBy my side くだらない愛を歌う際 嘘つきにはなりたくない」という矜持が守る、表現者としての誠実さへの執着

「たかがBy my side」。
さっき「されどBy my side」と言ったのに、今度は「たかが」。
この落差が面白いです。
大したことじゃない、と自分を卑下する。
でも、その後に続く言葉が重要です。
「くだらない愛を歌う際 嘘つきにはなりたくない」。
くだらない愛。
大した愛じゃない。壮大な愛でもない。
でも、それを歌う時、嘘はつきたくない。
この矜持が、表現者としての大森さんの芯だと私は思います。
音楽業界には、綺麗事がたくさんあります。
本当は感じていないことを、感じているように歌う。
本当はそこまで愛していないのに、永遠の愛を歌う。
でも、大森さんはそれを拒否する。
たとえくだらない愛でも、小さな愛でも、不完全な愛でも。
自分が本当に感じていることだけを歌いたい。
その誠実さが、この一行に凝縮されています。
そして、その誠実さこそが、Mrs. GREEN APPLEの音楽が多くの人に信頼される理由なのです。
「ワサワサする胸 朝方の疎ましさ」という生理的表現が剥き出しにする、若さゆえの衝動と自己嫌悪の同居
「ワサワサする胸」。
この擬態語も、とてもリアルです。
胸がドキドキする、ではなく、ワサワサする。
落ち着かない感じ。ざわざわする感じ。
恋なのか、不安なのか、焦りなのか、自分でもよくわからない感情。
それが「ワサワサ」という音で表現されています。
そして、「朝方の疎ましさ」。
先ほどは「倦怠感」と表現されていましたが、ここでは「疎ましさ」。
疎ましい、というのは、邪魔だ、鬱陶しいという意味です。
朝が来ることが、嫌なんです。
夜が明けて、現実が戻ってくることが、疎ましい。
この若者特有の、昼夜逆転的な感覚。
大人になると忘れてしまうこの感覚を、大森さんは忘れずに歌い続けています。
「ズラして乗る 急行電車」という小さな反抗が象徴する、ルールからの微細な逸脱と自己主張
「ズラして乗る」。
これは、おそらく席をずらして座る、ということでしょう。
空いている席に素直に座らず、少しだけずらして座る。
あるいは、決められた位置からずれて立つ。
この小さな反抗が、若者らしいと私は思います。
大きな反抗はできない。社会に逆らう勇気もない。
でも、小さくずれることはできる。
ちょっとだけ、規範から外れることはできる。
そんな、ささやかな自己主張。
そして、今度は「急行電車」。
さっきは準急だったのに、今度は急行。
速度が上がっている。
人生のペースが、少しずつ速くなっていく。
その変化も、電車の種類で表現されているのです。
「影が痛い 価値なんか無い 僕だけが独りのような夜が嫌い 君が嫌い」という叫びが吐露する、自己否定と他者への憎悪の混濁
ここで、曲は一気に暗くなります。
影が痛い。
これは、自分自身の影が痛いということでしょう。
自分の存在そのものが、痛い。
そして、「価値なんか無い」という自己否定。
自分には価値がない、と断言してしまう。
「僕だけが独りのような夜」。
周りには人がいる。友達も、家族もいる。
でも、僕だけが孤独だと感じる。
この孤独感が、たまらなく辛い。
そして、「君が嫌い」。
好きな人を、嫌いだと言う。
この矛盾が、若者の複雑な感情を表しています。
本当は好きなのに、その感情をうまく処理できなくて、嫌いだと思ってしまう。
あるいは、好きだからこそ、その人に傷つけられることが怖くて、先に嫌いになろうとする。
そんな防衛機制が、ここには表れていると思います。
そして、「優しくなれない僕です」という告白。
優しくなりたいのに、なれない。
その不器用さを、正直に認めている。
この正直さが、逆に優しさだと、私は思います。
「光が痛い 希望なんか嫌い」という逆説が明かす、眩しすぎる未来への恐怖と現状維持への執着

さらに、逆説的な告白が続きます。
光が痛い。
光は普通、希望や幸せの象徴です。
でも、それが痛い。
これは、希望が眩しすぎて直視できない、ということでしょう。
あるいは、光の中に立つことで、自分の影がはっきり見えてしまうことへの恐怖。
そして、「希望なんか嫌い」。
希望を持つことが、怖いんです。
希望を持てば、裏切られる可能性もある。
失望する可能性もある。
だったら、最初から希望なんて持たない方がいい。
そんな防衛的な姿勢が、ここには表れています。
「僕だけ置いてけぼりのような夜が嫌い」。
みんなは前に進んでいるのに、自分だけが取り残されている。
そんな焦燥感。
「一人が怖い」という告白も、切実です。
孤独が怖い。でも、人といるのも辛い。
この矛盾の中で、若者は揺れ動いているんです。
「我儘が拗れた美徳 不完全な思いも如何せん大事にしたくて」という覚悟が切り開く、欠点を宝物に変える錬金術
ここで、曲の雰囲気が変わり始めます。
「我儘が拗れた美徳」。
自分の我儘を、美徳だと言い換える。
これは、開き直りのようでいて、実は深い自己肯定です。
我儘は、普通は悪いこととされます。
でも、それが「拗れた」形で、美徳になる。
つまり、自分の欠点を、そのまま受け入れる。
いや、受け入れるだけでなく、それを自分の特徴として、誇りにする。
その転換が、ここで起きているんです。
「不完全な思いも如何せん大事にしたくて」。
不完全でいい。完璧じゃなくていい。
その不完全さこそを、大事にしたい。
この姿勢が、この曲の核心だと私は思います。
完璧を目指すのではなく、不完全なままの自分を愛する。
それが、本当の自己肯定なのだと。
「如何せん」という古風な言葉が入ることで、この決意に重みが増しています。
「クソみたいな敗北感もどれもこれもが僕を突き動かしてる」という真実が暴く、ネガティブな感情の持つポジティブな力

そして、この曲で最も印象的なフレーズ。
「クソみたいな敗北感」。
この下品さが、逆に真実味を増しています。
綺麗に「挫折感」とか「失望」とか言わずに、「クソみたいな」と言う。
そのリアルさが、若者の本音を表しています。
そして、その敗北感が、「僕を突き動かしてる」と続く。
これが、この曲の最も重要なメッセージだと私は思います。
ポジティブな感情だけが、人を動かすわけじゃない。
むしろ、ネガティブな感情こそが、人を動かす原動力になることがある。
悔しさ、敗北感、劣等感。
そうした「クソみたいな」感情が、「もっと頑張ろう」「もっと上を目指そう」という気持ちを生む。
これは、とても正直な人生観です。
綺麗事じゃない、リアルな人間の姿。
それを、Mrs. GREEN APPLEは隠さずに歌うんです。
「鼓動が揺らすこの大地とハイタッチ」という肯定が宣言する、生きている実感との和解と祝福

ここで、曲は一気に前向きになります。
自分の鼓動が、大地を揺らす。
そして、その大地とハイタッチする。
この壮大で、でもどこか子どもっぽいイメージが、素敵です。
自分の心臓の音が、世界を動かしている。
そう信じられる瞬間。
それが、若さの特権なのかもしれません。
大人になると、自分の存在なんて小さなものだと思ってしまう。
でも、若者は違う。
自分の鼓動が世界を揺らすと、本気で信じられる。
そして、大地とハイタッチする、という行為。
ハイタッチは、喜びを分かち合う行為です。
つまり、世界と喜びを分かち合っている。
生きていることそのものを、祝福している。
そんな肯定的なイメージが、ここには詰まっています。
さっきまでの暗さが嘘のように、ここで光が差し込んでくるんです。
「全て懸けた あの夏も色褪せはしない 忘れられないな 今日を生きる為に」という回想が結ぶ、過去と現在を繋ぐ意味の連鎖

そして、過去の思い出が語られます。
全てを懸けた夏。
おそらく、青春の一番輝いていた瞬間でしょう。
部活、恋、友情、夢。
何かに全てを懸けた、あの夏。
それは「色褪せはしない」。
時間が経っても、その輝きは失われない。
そして、「忘れられないな」。
忘れたくても、忘れられない。
いや、忘れるべきじゃない。
なぜなら、「今日を生きる為に」必要だから。
過去の輝きは、今を生きる力になる。
あの時の自分がいたから、今の自分がいる。
あの時に全てを懸けた経験があるから、今日も何かを懸けることができる。
過去は、ただの思い出ではなく、現在を支える土台なんです。
この「今日を生きる為に」という一言が、過去と現在を繋げています。
過去のために生きるのではなく、今日のために過去を思い出す。
その関係性が、とても健全だと私は思います。
「探す宛ても無いのに失くしてしまう」という繰り返しが問いかける、喪失の連鎖と意味への探求
ここで、前半と似たフレーズが再び登場します。
でも、少し違います。
前半は「忘れてしまう」でしたが、ここでは「失くしてしまう」。
忘れることと、失くすこと。
似ているようで、違います。
忘れるのは、記憶の問題。意識的にせよ無意識にせよ、頭の中から消えていく。
でも、失くすのは、もっと物理的な喪失。
大切な何かを、手から滑り落としてしまう。
そして、「僕らは何のために 誰のために 傷を増やしてゆくんだろう」という問い。
前半では「何を経て 何を得て」と問いかけていましたが、ここでは「何のために 誰のために」。
つまり、問いの角度が変わっているんです。
成長の内容を問うのではなく、成長の目的を問う。
傷を増やしていくことに、意味はあるのか。
その問いに、簡単な答えはありません。
でも、問い続けることそのものが、生きるということなのかもしれません。
「雨が降るその後に緑が育つように 意味のない事は無いと信じて 進もうか」という希望が芽生える、自然の摂理への信頼
ここで、曲は明確な希望を示します。
雨が降る。それは辛いことの比喩でしょう。
でも、その後に緑が育つ。
雨がなければ、植物は育たない。
辛いことがなければ、人は成長しない。
この自然の摂理を信じよう、と歌うんです。
「意味のない事は無い」。
これは、楽観主義ではなく、むしろ信仰に近いと私は思います。
本当に意味があるかどうか、わからない。
証明もできない。
でも、信じる。信じることにする。
その決意が、「信じて 進もうか」という言葉に込められています。
「進もう」ではなく、「進もうか」。
この「か」が、大事だと思います。
断定ではなく、問いかけ。自分自身への、そして聴く人への。
一緒に進まないか、という誘い。
その柔らかさが、押し付けがましくなく、心に響くのです。
「答えがない事ばかりだからこそ愛そう」という逆説が導く、不確実性を抱きしめる勇気の獲得
そして、この曲の哲学的な核心。
「答えがない事ばかりだからこそ愛そう」。
普通は、答えがあるから安心できる、と考えます。
でも、大森さんは逆を言う。
答えがないからこそ、愛する価値がある、と。
なぜなら、答えがあるものは、もう完結しているから。
答えのないものこそ、探求する余地がある。
愛する余地がある。
関わり続ける意味がある。
この逆説的な真理が、ここには込められていると思います。
人生に正解はありません。
どう生きるべきか、誰と生きるべきか、何を目指すべきか。
すべてに、明確な答えはない。
でも、だからこそ面白い。だからこそ、愛せる。
その視点の転換が、この一言で起きるんです。
「あの頃の青を覚えていようぜ」という呼びかけが守ろうとする、初心と純粋さという名の武器
「あの頃の青」。
青は、若さ、未熟さ、純粋さの色。
青二才、青臭い、という言葉があるように、青には否定的なニュアンスもあります。
でも、大森さんは「覚えていようぜ」と言う。
忘れてはいけない、と。
大人になると、青臭さを失っていきます。
現実を知り、妥協を覚え、諦めることを学ぶ。
それは、生きていく上で必要なことかもしれません。
でも、完全に青さを失ってしまったら、何かが死んでしまう。
だから、覚えていよう。
あの頃の青さを。あの頃の馬鹿らしいくらいの情熱を。
それが、生きていく上での武器になる。
そう、大森さんは言っているのだと思います。
「ぜ」という語尾も、仲間への呼びかけのようで、温かいです。
一人で覚えているのではなく、みんなで覚えていよう。
その連帯感が、この言葉には込められています。
「苦味が重なっても光ってる」という発見が証明する、経験値としての苦しみの価値
「苦味が重なっても光ってる」。
苦味は、辛い経験の比喩でしょう。
苦い思い出、苦い経験。
それが重なっていく。
でも、「光ってる」と言うんです。
苦味があるからこそ、光る。
これは、深い真理だと私は思います。
甘いだけのものは、すぐに飽きる。
でも、苦味があるものは、深みがある。
大人の味、という言葉があるように。
人生も同じです。
楽しいことばかりの人生は、薄っぺらい。
苦しいことがあるからこそ、楽しいことの価値がわかる。
辛いことがあるからこそ、優しさの意味がわかる。
苦味が重なることで、人生は深みを増し、独特の輝きを放つようになる。
その真実を、この短いフレーズは伝えています。
「割に合わない疵も認めてあげようぜ」という宣言が解放する、コスパ思考からの自由と傷の肯定
「割に合わない疵」。
この表現が、とても現代的だと私は思います。
現代社会は、コストパフォーマンスを重視します。
費やした努力に見合った結果が得られるか、常に計算する。
でも、人生には「割に合わない」ことがたくさんあります。
頑張ったのに報われなかった経験。
傷ついた割に、何も得られなかった関係。
時間を費やしたのに、何も残らなかった日々。
そうした「割に合わない疵」を、大森さんは「認めてあげようぜ」と言う。
これは、とても優しい言葉だと思います。
無駄じゃなかった、と強がるのではなく。
かといって、無駄だったと切り捨てるのでもなく。
ただ、「認める」。
割に合わなくても、それも自分の一部だと認める。
その寛容さが、本当の自己肯定につながるのだと。
そして、「あげようぜ」という言い方。
自分自身に対して「あげよう」と言うこの優しさ。
自分を労り、自分を許し、自分を愛する。
その態度が、この言葉に表れています。
「僕は僕自身を愛してる 愛せてる」という到達点が完成させる、不完全な自己への全肯定の宣言
そして、曲の最後。
「僕は僕自身を愛してる 愛せてる」。
この宣言で、曲は終わります。
「愛してる」だけでなく、「愛せてる」と続けるところが重要です。
愛している、というのは状態。
愛せている、というのは能力。
つまり、愛することができている、という達成感がここにはあります。
この曲の前半では、自分を否定する言葉がたくさんありました。
価値がない、名もなき存在、クソみたいな敗北感。
でも、最後には「愛せてる」と言える。
この変化が、この曲の物語なんです。
完璧になったわけではありません。
傷が癒えたわけでも、問題が解決したわけでもない。
でも、そんな不完全な自分を、愛せるようになった。
それが、成長であり、救いなのだと。
大森さんは、そう伝えてくれているのだと思います。
Mrs. GREEN APPLEが描く「不完全さの讃歌」という新しい青春像
『ライラック』は、従来の青春ソングとは違います。
キラキラした青春でも、努力と成功の物語でもありません。
むしろ、傷だらけで、割に合わなくて、答えのない青春。
でも、だからこそ美しい。
大森元貴さんの言葉は、いつも正直です。
綺麗事を言わない。理想を押し付けない。
ただ、自分が感じたこと、考えたことを、そのまま歌にする。
「クソみたいな」という下品な言葉も、「愛せてる」という優しい言葉も、同じ曲の中に共存させる。
その振り幅の大きさが、人間らしさであり、Mrs. GREEN APPLEの魅力なのです。
まとめ:傷だらけのあなたへ、それでも愛せると伝えたい
『ライラック』が教えてくれることを、まとめてみます。
① 減っていくものではなく、増えていくものを数えよう
残りの人生を嘆くのではなく、積み重ねてきた経験や思い出という美しい数字に目を向けましょう。
② 「クソみたいな」感情も、あなたを動かす力になる
敗北感、劣等感、悔しさ。ネガティブな感情も、前に進む原動力になります。それを否定しないでください。
③ 割に合わなくても、それもあなたの一部
すべてが報われるわけではありません。でも、その割に合わない経験も、あなたという人間を作っています。
④ 不完全なままで、自分を愛していい
完璧になる必要はありません。傷だらけで、名もなき存在のような自分でも、愛する価値があります。
私はこの曲を聴くたびに、自分を許せるような気がします。
うまくいかなくてもいい。完璧じゃなくてもいい。
今日も何とか生きている。それだけで十分なんだ、と。
あなたも今、自分を愛せないでいますか?
クソみたいな敗北感に、押しつぶされそうになっていますか?
だったら、この曲を聴いてください。
そして、あの頃の青を思い出してください。
苦味が重なっても、あなたは光っています。
割に合わない疵も、全部含めて、あなたです。
僕は僕自身を愛してる。愛せてる。
そう言える日が、きっと来ます。
三番ホームで準急電車を待ちながら、青に似たすっぱい春とライラックの香りを感じながら。
今日を生きていきましょう。


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