RADWIMPSの『なんていう』は、タイトルからして未完成の文章のような、言葉を探し続けている印象を与える楽曲です。
この曲を初めて聴いたとき、「なんて言えばいいのか分からない」という思いが、曲全体を貫いていることに気づいた方も多いのではないでしょうか。
私がこの曲に惹かれるのは、言葉にできない感情を、それでも必死に言葉にしようとする──その矛盾した行為そのものが、愛の証明になっているからだと感じます。
特に印象的なのが、
「ねぇなんて言えばふさがるかな 君の胸に空いた穴は」
というフレーズ。
何を言っても埋められない穴。でもそれでも、何か言葉を探し続けている。その切実さが、この曲の核心だと思います。
そして、
「運命ってどんな顔をしてるの? 見たことないけど きっと会えたら 君にそっくりな瞳で 僕を見るだろう」
という、運命を君の姿として捉える視点。
この記事では、『なんていう』の歌詞に込められた深い意味を、一つひとつ丁寧に読み解いていきます。
野田洋次郎が私たちに見せてくれた、言葉の限界と、それでも言葉を紡ぐ意味を、一緒に探っていきましょう。
- 「この歌を書かせてるのは この手でも声でもなく 君の瞳なんだよ」──創作の源泉としての、一人の人間が持つ圧倒的な存在感と影響力
- 「君のせい」がいつしか「君のおかげ」に変わってた──責任と感謝の境界が溶け合う、人生を根底から変える出会いの真実
- 【核心】「ねぇなんて言えばふさがるかな 君の胸に空いた穴は」──言葉では決して埋められない喪失と、それでも言葉を探し続ける愛の形
- 「君はとびきりの笑顔で壊したんだ」──緻密に計画された日常という名の牢獄を、一瞬で破壊する恋の持つ暴力的なまでの力
- 「運命ってどんな顔をしてるの? きっと君にそっくりな瞳で僕を見るだろう」──抽象概念を具体的な存在として捉える、運命の擬人化という詩的技法
- 「君が死んでいなくなってはじめての朝」──想像するだけで世界が止まる、究極の喪失がもたらす宇宙規模の変化
- まとめ
「この歌を書かせてるのは この手でも声でもなく 君の瞳なんだよ」──創作の源泉としての、一人の人間が持つ圧倒的な存在感と影響力

この曲は、創作の動機について語るところから始まります。
私としては、この歌詞が「芸術作品は作者のものではなく、インスピレーションを与えた存在のもの」という認識を表現しているのではないかと思います。
「この歌を書かせてるのは この手でも声でもなく」──つまり、物理的に歌を書いている自分の手や、歌っている自分の声が、本当の創作者ではないということですね。
では何が書かせているのか。
「君の瞳なんだよ 宿った光なんだよ」──君という存在。その瞳に宿る光。
これは、ミューズ(創作の女神)の現代版とも言えるかもしれません。
君がいるから、歌が生まれる。君を見るから、言葉が溢れ出る。
創作の源泉は、自分の内側ではなく、君という外部の存在にある。
「君を彩る痛みも」
という言葉も、重要だと思います。
君の美しさだけでなく、君が抱えている痛み、苦しみ、傷──それらも含めて、全てが創作の源になっている。
完璧な君ではなく、痛みを抱えた君。その不完全さこそが、歌を生み出すのではないでしょうか。
この冒頭部分が、この曲全体のテーマ──君という存在が、自分の人生と創作の全てを動かしている──を示しているように感じます。
「君のせい」がいつしか「君のおかげ」に変わってた──責任と感謝の境界が溶け合う、人生を根底から変える出会いの真実

この曲には、感情の変化、認識の転換が描かれています。
私としては、この歌詞が「最初は困難や苦しみをもたらしたと思っていた出会いが、後から見ると最大の祝福だったと気づく」という、人生の逆説を表現しているのではないかと感じます。
「君のせいで始まった旅に 愚痴のいくつも止まらないけど」という言葉が、正直ですね。
君に出会ったことで、予定していなかった旅が始まった。計画が狂った。人生が変わった。
その旅は必ずしも楽なものではなく、「愚痴のいくつも」出てしまう。
これは、恋愛がもたらす困難──悩み、苦しみ、不安、葛藤──を指しているのかもしれません。
でも「気づけば出逢ってた 眩いほどの景色と 生まれてはじめての心に」という続きが、美しいと思います。
愚痴を言いながらも、気づいたら素晴らしい景色に出会っていた。今まで見たことのない感情、経験したことのない心の動きに出会っていた。
「『君のせい』がいつしか気づかぬうちになんでか 『君のおかげ』に変わってた」
この転換が、この曲の重要なテーマだと思います。
最初は「せい」──責任、原因、場合によっては非難のニュアンスを含む言葉。
でもいつの間にか「おかげ」──感謝、恩恵を示す言葉に変わっている。
同じ出来事、同じ出会いなのに、時間が経つと見え方が変わる。
苦しみだと思っていたことが、実は祝福だった。邪魔だと思っていた出会いが、実は人生最大の幸運だった。
この認識の変化が、人生における「出会い」の本質を示しているのではないでしょうか。
【核心】「ねぇなんて言えばふさがるかな 君の胸に空いた穴は」──言葉では決して埋められない喪失と、それでも言葉を探し続ける愛の形

この曲の核心は、繰り返される「なんて言えば」という問いかけにあると私は思います。
私としては、この言葉が「言葉の無力さ」と「それでも言葉を諦めない意志」という、二つの相反する感情を同時に表現しているのではないかと感じます。
「ねぇなんて言えばふさがるかな 君の胸に空いた穴は」というフレーズが、この曲で最も切ない部分ですね。
君の胸には「穴」が空いている。
これは比喩的な表現──何かを失った、誰かを失った、満たされない何かがある、という心の空洞を指しているのでしょう。
そして「なんて言えばふさがるかな」という問いかけ。
言葉で、その穴を埋めたい。慰めたい。癒したい。
でもこの問いかけの裏には、「何を言っても埋められない」という諦めも含まれているように感じます。
言葉には限界がある。どんな美しい言葉も、どんな正しい言葉も、心の穴を完全に埋めることはできない。
でもそれでも、「なんて言えば」と探し続けている。
この探し続ける行為そのものが、愛なのではないでしょうか。
「ねぇなんて顔で僕を見るの 70000ピースのパズルの最後の 一個を口に咥えた ような笑顔で」
という表現も、独特で印象的です。
7万ピースのパズル──想像を絶するほど複雑で、完成に途方もない時間がかかるパズル。
その最後の一個を持っている笑顔。
これは、「もう少しで完成する」という期待と、「でもまだ完成していない」という不完全さを同時に表している笑顔なのかもしれません。
あるいは、「この一個があれば、全てが完成する」という希望を秘めた笑顔。
君は何かを知っている。何かを持っている。でもまだそれを置いていない。
その「もうすぐ」という状態が、この笑顔に込められているのではないでしょうか。
「君はとびきりの笑顔で壊したんだ」──緻密に計画された日常という名の牢獄を、一瞬で破壊する恋の持つ暴力的なまでの力

この曲には、秩序と混沌、計画と破壊というテーマが流れています。
私としては、この歌詞が「恋は人生の計画を破壊するが、その破壊こそが新しい人生の始まり」という逆説を表現しているのではないかと思います。
「今日がちゃんと今日であるように 日々計画などを立てて なんとか生きてきたよ」という言葉が、計画的な人生を示していますね。
予定通りに生きる。計画を立てて、それに従う。安定した、予測可能な日々。
「今日がちゃんと今日であるように」──つまり、日々が予定通りに進むように。
これは、ある意味で安全な生き方です。リスクを避け、驚きを避け、混乱を避ける。
「なんとか生きてきたよ」という言葉には、それが必ずしも楽しくはなかったという含みも感じられます。
「それなのに何だよ 君はとびきりの笑顔で壊したんだ」
この「壊した」という強い言葉が、印象的です。
君は、その計画的な人生を破壊した。予定調和を崩した。安全な日々を終わらせた。
でも「とびきりの笑顔で」──悪意があったわけではない。むしろ、無邪気に、明るく、破壊した。
この破壊は、暴力ではなく、恋の自然な結果なのでしょう。
恋は計画を無視します。予定を狂わせます。安全な生き方を不可能にします。
でもその破壊の後に、新しい人生が始まる。計画にはなかった、でももっと豊かな人生が。
そんなメッセージが、この言葉に込められているように感じます。
「運命ってどんな顔をしてるの? きっと君にそっくりな瞳で僕を見るだろう」──抽象概念を具体的な存在として捉える、運命の擬人化という詩的技法

この曲には、運命という抽象的な概念への問いかけが繰り返されます。
私としては、この表現が「運命とは君そのものである」という認識を、詩的に美しく表現しているのではないかと感じます。
「ねぇ運命ってどんな顔をしてるの? 見たことないけど」という問いかけが、素直で面白いですね。
運命──それは抽象的な概念。目に見えないもの。触れられないもの。
でも「どんな顔をしてるの?」と擬人化して問いかける。
これは子どものような純粋な疑問であり、同時に哲学的な問いでもあります。
「きっと会えたら 君にそっくりな瞳で 僕を見るだろう」
という答えが、とても美しいと思います。
もし運命に会えたら、それは君の顔をしているだろう。君の瞳で僕を見るだろう。
つまり、運命とは君のことだった。
君に出会ったこと、それが自分の運命だった。
運命という大きな概念を、一人の具体的な人間に収束させる。この詩的な飛躍が、とても野田洋次郎らしいと感じます。
そしてこの認識は、君との出会いが偶然ではなく必然だったという確信を示しているのではないでしょうか。
君に出会うために、自分は生まれてきた。君こそが自分の運命だった。
そんな強い思いが、この言葉に込められているように思います。
「君が死んでいなくなってはじめての朝」──想像するだけで世界が止まる、究極の喪失がもたらす宇宙規模の変化

この曲の最も衝撃的で、最も深い部分がここにあると私は思います。
私としては、この歌詞が「愛する人の喪失が、個人レベルを超えて宇宙規模の出来事になる」という、愛の絶対性を表現しているのではないかと感じます。
「君が死んでいなくなってはじめての朝、神様は 慌てふためいて 思わずはじめて声を漏らすだろう」という想像が、壮大で、でも切ないですね。
これは仮定の話です。実際には起こっていない(起こってほしくない)出来事。
でもその想像の中で、神様が「慌てふためいて」「思わずはじめて声を漏らす」。
神様でさえも、君の死に驚き、動揺する。それほどまでに、君の存在は重要だった。
この表現には、君がどれほど特別な存在か、という認識が込められているように思います。
世界にとって、宇宙にとって、そして神にとってさえも、君は欠かせない存在だった。
「太陽がこの地球を丸呑みして滅びゆくまで あと60億年 気の抜けた顔して 惰性で仕方なく周り 続けるだろう」
という続きも、壮大で虚無的です。
科学的には、太陽は約60億年後に膨張して地球を飲み込むと言われています。
でもその60億年を「気の抜けた顔して 惰性で仕方なく」周り続ける──という表現。
君がいなくなったら、宇宙そのものが意味を失う。太陽も惰性で回るだけになる。
これは誇張ではなく、主人公にとっての真実なのでしょう。
君がいない世界は、たとえ物理的には存在し続けても、意味のない世界。
そんな極限の愛の表現が、ここにあるように感じます。
まとめ
今回はRADWIMPSの『なんていう』の歌詞について、その深い意味を考察してきました。
最後に、この記事のポイントを簡潔にまとめてみましょう。
創作の源泉としての君
「この歌を書かせてるのは君の瞳なんだよ」という言葉に、君という存在が全ての創作の源になっているという認識が表れているように思います。
「せい」から「おかげ」への転換
最初は困難をもたらしたと思った出会いが、後から見ると最大の祝福だったという、人生の逆説が描かれているのではないでしょうか。
言葉の無力さと探求
「なんて言えばふさがるかな」という問いの繰り返しに、言葉では埋められない穴と、それでも言葉を探し続ける愛が込められていると感じます。
計画の破壊としての恋
「君はとびきりの笑顔で壊したんだ」という言葉に、恋が日常を破壊し、新しい人生を始めさせる力が表現されているように思います。
運命の擬人化
「運命ってどんな顔をしてるの? きっと君にそっくりな瞳で」という表現に、運命が君そのものだという確信が示されているのではないでしょうか。
宇宙規模の喪失
「君が死んでいなくなってはじめての朝」という想像に、愛する人の喪失が個人を超えた宇宙的な出来事になるという、愛の絶対性が描かれていると感じます。
野田洋次郎が紡いだこの曲は、言葉にできない感情を必死に言葉にしようとする矛盾と、埋められない穴を前にしても言葉を探し続ける愛の形を、宇宙的なスケールと個人的な切実さを交えて描いた、深遠な作品だと私は感じます。
この記事を読んで、改めて『なんていう』を聴き直したくなった方もいるかもしれませんね。
「なんて言えば」──この問いに答えはないかもしれません。
でも、答えを探し続けること。言葉を紡ぎ続けること。
それこそが、愛することの意味なのかもしれません。



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