フジファブリックの『陽炎』は、故・志村正彦さんが残した作品の中でも、特に郷愁と切なさに満ちた楽曲です。
この曲を聴いたとき、夏の暑い日に揺らめく陽炎のように、曖昧で儚い記憶が心の中で揺れ動く感覚を覚えた方も多いのではないでしょうか。
私がこの曲に惹かれるのは、子ども時代の何気ない日常の一コマが、大人になった今、かけがえのない宝物として蘇ってくる様子が、とても繊細に描かれているからだと感じます。
特に印象的なのが、
「遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる」
というフレーズ。
陽炎という、手で掴めない、でも確かに見えるものが、記憶そのもののメタファーになっているように思います。
そして、
「きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう」
という、時間の経過への認識。
この記事では、『陽炎』の歌詞に込められた深い意味を、一つひとつ丁寧に読み解いていきます。
志村正彦さんが私たちに遺してくれた、故郷への思いを一緒に探っていきましょう。
「あの街並 思い出したときに」──記憶の断片

この曲は、ふとした瞬間に蘇る記憶の断片から始まります。
私としては、この歌詞は「意図せずに蘇ってくる過去の記憶」と「その記憶がもたらす感情」を描いているのではないかと思います。
「あの街並 思い出したときに 何故だか浮かんだ」という冒頭が、とても自然で印象的ですね。
「何故だか」という言葉が重要だと感じます。意識して思い出したのではなく、突然、理由もなく浮かんできた──記憶というのは、そういうものなのかもしれません。
特定の匂いや音、季節の空気感が、突然過去の記憶を呼び起こすことがあります。それは制御できない、心の奥底からの湧き上がりのようなものではないでしょうか。
「また そうこうしているうち 次から次へと浮かんだ 残像が 胸を締めつける」
という続きも、記憶の性質をよく表していると思います。
一つの記憶が、次の記憶を呼び起こし、芋づる式に過去が蘇ってくる。そして「残像」という言葉──まるで写真のように、でも少し曖昧で、はっきりしない。
その残像たちが「胸を締めつける」。懐かしさと切なさが入り混じった、複雑な感情が込み上げてくるのでしょう。
「英雄気取った 路地裏の僕」──子ども時代の自分

この曲には、子ども時代の自分への優しい眼差しが感じられます。
私としては、この歌詞が「小さな世界で大きな夢を抱いていた子ども時代」と「その頃の純粋さへの郷愁」を表現しているのではないかと感じます。
「英雄気取った 路地裏の僕が ぼんやり見えたよ」というフレーズが、とても温かいですね。
「英雄気取った」という表現に、子どもの頃の自分への微笑ましい視線が感じられます。大したことをしているわけでもないのに、自分が特別な存在だと信じていた頃。
「路地裏」という場所も象徴的だと思います。大通りではなく、路地裏──子どもたちの秘密の遊び場。大人の世界から少し離れた、子どもだけの王国。
そして「ぼんやり見えた」という表現が、記憶の曖昧さを表しているように感じます。はっきりとは見えない、霞んでいる、でも確かにそこにいた自分。
「隣のノッポに 借りたバット」「駄菓子屋に ちょっとのお小遣い持って行こう」
という具体的な描写が、とてもリアルですね。
友達から借りたバット、わずかなお小遣い──これらは、子ども時代の日常の小さな出来事です。でも大人になった今、それがかけがえのない思い出として蘇ってくる。
日常の何気ない一コマが、時間を経ることで特別な輝きを持つようになる──そんな記憶の不思議さが描かれているように思います。
【核心】「陽炎が揺れてる」──揺らめく記憶の象徴

この曲のタイトルでもある「陽炎」が、この曲の核心的なメタファーだと私は思います。
私としては、この「陽炎」が「曖昧で掴めない記憶」「揺らぎ続ける過去」「儚くも美しいもの」を象徴しているのではないかと感じます。
陽炎は、夏の暑い日に地面から立ち上る熱で、景色が揺らめいて見える現象です。
それは確かに見えるのに、手で掴むことはできない。近づくと消えてしまう。でも遠くから見ると、美しく揺らめいている。
この性質が、記憶そのものを表しているのではないでしょうか。
「窓からそっと手を出して やんでた雨に気付いて 慌てて家を飛び出して そのうち陽が照りつけて」
という一連の描写も、とても印象的です。
雨がやむのを待って、外に飛び出す。そして太陽が照りつける。この流れが、子ども時代の夏の日の、何でもない一瞬を捉えていますね。
そして「遠くで陽炎が揺れてる 陽炎が揺れてる」と繰り返される。
この反復が、記憶が揺らぎ続けていることを表しているように思います。固定された過去ではなく、常に揺れ動き、変化し続ける記憶。
時間が経つにつれて、記憶は美化されたり、曖昧になったり、新しい意味を持ったりします。まるで陽炎のように、揺らめきながら存在し続けるのではないでしょうか。
「無くなったものもたくさんあるだろう」──時間の経過と喪失

この曲には、時間の経過がもたらす喪失への認識が込められています。
私としては、この歌詞が「過去の風景は既に失われている」という現実と、それでも記憶の中では生き続けているという二重性を表現しているのではないかと思います。
「きっと今では無くなったものもたくさんあるだろう」という言葉が、とても切ないですね。
「きっと」「だろう」という推測の表現が使われているのが興味深いと感じます。確認していないけれど、おそらく、多くのものが失われているだろう──そんな不確かさがあります。
駄菓子屋は閉店したかもしれない。遊んだ路地裏は再開発されたかもしれない。友達は遠くへ行ってしまったかもしれない。
でもそれを確かめに行くのは、怖いことなのかもしれません。記憶の中の美しい風景が、現実によって壊されてしまうことを恐れている──そんな心理も感じられます。
「さんざん悩んで 時間が経ったら 雲行きが変わって ポツリと降ってくる 肩落として帰った」
という一節も、子ども時代の小さな挫折を描いていますね。
野球をしようと思っていたのに、雨が降ってきて諦めざるを得なかった。肩を落として帰る子どもの姿。
こんな小さな出来事が、大人になった今でも心に残っている。そこに、記憶の不思議さと愛おしさがあるのではないでしょうか。
「あの人は変わらず過ごしているだろう」──変わらないものへの願い

この曲の中で、唯一「変わらない」と願われるものがあります。
私としては、この歌詞が「風景や物は変わっても、大切な人は変わらずにいてほしい」という願いを表現しているのではないかと感じます。
「きっとそれでもあの人は変わらず過ごしているだろう」という言葉が、温かいですね。
多くのものが失われたとしても、「あの人」は変わらずにいる──そう信じたい、あるいはそう願っているのでしょう。
この「あの人」が誰なのかは明示されていません。親かもしれないし、友達かもしれないし、昔好きだった人かもしれない。
でも重要なのは、その人が「変わらず過ごしている」と想像することで、心が安らぐということではないでしょうか。
全てが変わってしまった中で、何か一つでも変わらないものがあってほしい。その願いが、この一節に込められているように思います。
志村正彦さん自身も、地元の山梨を愛し、頻繁に帰っていたと言われています。
この曲は、そんな故郷への愛と、そこで過ごした時間への郷愁を歌っているのかもしれませんね。
まとめ
今回はフジファブリックの『陽炎』の歌詞について、その深い意味を考察してきました。
最後に、この記事のポイントを簡潔にまとめてみましょう。
突然蘇る記憶
「何故だか浮かんだ」という言葉に、意図せずに蘇ってくる過去の記憶の性質が表れているように思います。
子ども時代への優しい眼差し
「英雄気取った路地裏の僕」という表現に、過去の自分への微笑ましい愛情が込められているのではないでしょうか。
陽炎という記憶の象徴
揺らめく陽炎が、曖昧で掴めない、でも美しい記憶そのものを表しているように感じます。
喪失の認識
「無くなったものもたくさんあるだろう」という言葉に、時間の経過がもたらす喪失への切ない認識が表れているのだと思います。
変わらないものへの願い
「あの人は変わらず過ごしているだろう」という想像に、変わってほしくないものへの願いが込められているのではないでしょうか。
志村正彦さんが紡いだこの曲は、誰もが持っている故郷への思い、子ども時代への郷愁を、陽炎という美しいメタファーで表現した名曲だと私は感じます。
この記事を読んで、改めて『陽炎』を聴き直したくなった方もいるかもしれませんね。
あなたの記憶の中でも、きっと陽炎が揺れているはずです。
その揺らめきを、大切にしてください。


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