RADWIMPSの「トレモロ」。このタイトルを聞いて、私はまず音楽用語としての「トレモロ(tremolo)」を思い浮かべました。トレモロとは、同じ音を素早く反復して演奏すること。震えるような、揺れるような音。
この曲全体が、まさにその「震え」に満ちています。確信と疑い、希望と絶望、繋がりと離別——そういった相反するものの間で、心が激しく揺れ動く。その震えこそが、この曲の本質なのだと私は感じます。
今回は、野田洋次郎が紡ぐこの哲学的で美しい楽曲を、深く読み解いていきたいと思います。

東京都出身33歳。数百曲の歌詞を分析してきた実績を持つ、”裏テーマ発掘”専門ブロガー。表層的な意味に惑わされず、作者の無意識、社会の深層を映す鏡としての歌詞を学術的な視点で考察します。読み終わった後、その曲が別物に聴こえます。
- 「満天の空に君の声が響いてもいいような綺麗な夜」
- 「悲しみが悲しみで終わらぬよう せめて地球は周ってみせた」
- 「本当に伝えたい想いだけはうまく伝わらないようにできてた」
- 「何もないんだってここには」って笑ってる君も望んでる」
- 「意味はないんだって僕には」って叫んでる僕も望んでる」
- 「最近は映画の見すぎで奇跡も珍しくなくなったね」
- 「ほら 僕が僕から離れてく」— 自己分裂の瞬間
- 「神様は僕に 夢を見させた」— 救済としての夢
- 「離さないよ 繋いでたいの 僕は僕の手を」— 曲の核心
- 「今止まっていた景色が動き出した気がしたんだよ」
- 「不器用な僕も描き出してみるよ 終わりに向かってゆく明日を」
- まとめ:震えながらも、繋ぎ止める勇気
「満天の空に君の声が響いてもいいような綺麗な夜」

冒頭から、壮大で詩的な風景が広がります。
「響いてもいいような」という許可の感覚
「響く」ではなく「響いてもいいような」。この微妙な表現に、私は繊細な心理を感じます。
この表現が示すもの:
- 完全な確信ではない、ためらいがある
- でも、それを許せるほど美しい夜
- 声を上げてもいい、という解放感
- 普段は抑えているものを表に出せる瞬間
満天の星空の下では、普段言えないことも言えそうな気がする。そんな特別な夜の空気感が、この一文から伝わってきます。
「悲しみが悲しみで終わらぬよう せめて地球は周ってみせた」

この一行に、私は鳥肌が立ちました。
時間の循環が持つ意味
「地球は周る」——これは物理的な事実であり、同時に深い比喩でもあります。
| 地球の自転・公転 | 人生への比喩 |
|---|---|
| 夜の後には必ず朝が来る | 悲しみの後には何かが来る |
| 季節は巡る | 辛い時期も過ぎ去る |
| 止まることなく回り続ける | 時間は待ってくれない |
「せめて」という言葉が切ないです。他に何もできないけど、せめて地球は回り続ける。時間は進み続ける。それが、悲しみを「悲しみで終わらせない」唯一の救いなのかもしれない、と。
「悲しみで終わらぬよう」という願い
悲しみが「終わる」のではなく、「悲しみで終わらぬよう」。つまり、悲しみの先に何かがある、ということ。
悲しみの先にあるもの:
- 成長
- 新しい視点
- より深い理解
- 他者への共感
- 生きる意味
この視点、Snow Manの「愛のせいで」にあった「悲しみは次のあなたへの橋になりますように」と通じるものがありますね。
「本当に伝えたい想いだけはうまく伝わらないようにできてた」

この観察が、あまりにもリアルで痛いです。
コミュニケーションの残酷な皮肉
どうでもいいことはスラスラ言えるのに、本当に大切なことほど言葉にならない。この経験、誰にでもあるのではないでしょうか。
伝わらない理由:
- 大切すぎて言葉が見つからない
- 誤解されるのが怖い
- 重すぎて相手を困らせてしまうかも
- 言葉にした瞬間、薄っぺらくなる気がする
「うまく伝わらないようにできてた」——まるで世界がそう設計されているかのような言い方。この諦念と、それでも伝えたいという葛藤が、歌詞全体に流れています。
「そのもどかしさに抱かれぬよう せめて僕は笑ってみせた」
「せめて」が再び出てきます。地球が周るように、僕は笑う。
笑顔の意味:
- 本当の気持ちを隠すための仮面
- もどかしさに飲み込まれないための防御
- 相手を心配させないための配慮
- それでも前を向こうとする意志
「抱かれぬよう」という表現も独特です。もどかしさに「抱かれる」——つまり、完全に支配されてしまう、ということ。それを避けるために、笑う。この切なさ。
「何もないんだってここには」って笑ってる君も望んでる」

ここから、曲は哲学的な深みに入っていきます。
「何もない」という虚無と、それを「望む」矛盾
「何もない」と笑いながら言う人がいる。そして、その人は実は「何もない」ことを望んでいる——この観察が鋭いです。
虚無を望む理由:
- 意味を求めることに疲れた
- 期待することで傷つくのを避けたい
- 何もなければ失望することもない
- シンプルさへの憧れ
- 考えることからの逃避
でも、本当に「何もない」と思っているなら、笑う必要もないはずですよね。笑っているということは、まだ何かを感じている。この矛盾。
「そんな声もかき消すほどに 膨れるこの万象を」
「万象」——あらゆる存在、あらゆる現象。
「何もない」と言う声を、現実の豊かさがかき消してしまう。世界は実際には「何もない」どころか、あまりにも多くのもので満ちている。その圧倒的な存在感。
私は、ここに野田洋次郎の世界観を感じます。虚無を主張したくなるほど辛い現実があっても、世界は容赦なく「在り続ける」。その事実の重さと、同時に救いと。
「意味はないんだって僕には」って叫んでる僕も望んでる」

今度は「君」から「僕」へ。
自分自身の虚無への叫び
「叫んでる」——「笑ってる」君とは対照的に、僕は叫んでいます。
笑顔と叫びの違い:
君:「何もない」と笑う → 静かな諦め
僕:「意味はない」と叫ぶ → 激しい抵抗
「僕も望んでる」——僕も、意味のなさを望んでいる。意味がなければ楽なのに。意味を求めなくていいのに。
「無味を悟る その先に浮かぶ光の粒を」
でも、この一行で全てが変わります。
「無味を悟る その先に」——つまり、虚無や無意味を完全に受け入れた、その先に、何かが見える。
「光の粒」が象徴するもの:
- 希望の小さな萌芽
- 諦めた先に見える新しい視点
- 虚無を超えた場所にある美しさ
- 期待を手放したときに現れる純粋な存在
これは、禅の思想にも通じる気がします。執着を手放したとき、本当の世界が見える、という。
「最近は映画の見すぎで奇跡も珍しくなくなったね」
この観察が、現代社会への鋭い批評になっています。
メディアによる感覚の麻痺
情報過多の時代の症状:
- 奇跡的なシーンを映画で何度も見て、感動が薄れる
- 本物の奇跡に出会っても「ありふれたもの」に感じる
- リアルよりフィクションの方が派手で魅力的
- 日常の小さな奇跡に気づけなくなる
「珍しくなくなった」——この言葉の選択が絶妙です。奇跡は起こらなくなったのではなく、私たちが「珍しくない」と感じるようになった。問題は世界にではなく、私たちの感受性にある。
「心にもないことでもすらすら言えるようになったよ」
そして、コミュニケーションも表面的になっていく。
冒頭の「本当に伝えたい想いだけはうまく伝わらない」と対照的に、「心にもないこと」は「すらすら」言える。
この皮肉な現実:
- SNS時代の建前のコミュニケーション
- 本音と建前の乖離
- 上手に嘘をつける自分への嫌悪
- 言葉の軽さ、信頼性の喪失
「ほら 僕が僕から離れてく」— 自己分裂の瞬間

この一行が、曲の最も重要な転換点だと私は思います。
自己喪失の恐怖
「僕が僕から離れてく」——自分が自分でなくなっていく感覚。
自己分裂の原因:
- 本音と建前を使い分けすぎた結果
- 社会的な仮面をつけ続けた結果
- 本当の感情を抑圧し続けた結果
- 意味を求めることを諦めた結果
この感覚、現代人の多くが経験しているのではないでしょうか。気づいたら、自分が何者なのか分からなくなっている。本当の自分がどこにいるのか見えなくなっている。
「そんなことさえも忘れたくなる」
そして、その苦痛さえも忘れたくなる。自己分裂していることさえ意識したくない。
でも——
「真実とはねそれだけで美しいんだ」と 言って」
誰かが(あるいは自分自身が)言う。「真実はそれだけで美しい」と。
この言葉の意味:
- 飾らなくていい
- 完璧じゃなくていい
- ありのままでいい
- 真実であること自体に価値がある
この言葉が、バラバラになりかけた自分を繋ぎ止める。そして、再び満天の星空のシーンに戻ります。
「神様は僕に 夢を見させた」— 救済としての夢

「悲しみが悲しみで終わると疑わぬように 神様は僕に 夢を見させた」
夢の二重の意味
「夢」は二つの意味を持ちます:
- 睡眠中の夢:現実逃避、一時的な救い
- 希望としての夢:未来への期待、生きる目的
どちらの意味でも、夢は「悲しみが悲しみで終わる」という絶望から私たちを守ってくれます。
「神様は~見させた」という受動的な表現も興味深いです。自分で見ようとしたのではなく、見せられた。これは恩寵なのか、それとも慰めの嘘なのか。
「離さないよ 繋いでたいの 僕は僕の手を」— 曲の核心

「今開いていたページの上に描いてみようかな『離さないよ 繋いでたいの 僕は僕の手を』」
この部分が、タイトル「トレモロ」の本当の意味を明かしていると私は感じます。
自分で自分を繋ぎ止める
「僕は僕の手を」——他者の手ではなく、自分の手を。
このイメージの強烈さ:
- 離れていく自分を、自分で掴む
- 自己救済の試み
- 誰も助けてくれないという孤独
- でも、自分だけは自分を見捨てない決意
まるで、崖から落ちそうな自分の手を、もう一人の自分が必死で掴んでいるような。そのイメージが切なく、でも力強い。
「トレモロ」としての震え
この「繋ぎ止める」行為は、決して安定したものじゃないはずです。
離れていく力 ←震え→ 繋ぎ止める力
この緊張関係が、「トレモロ」という震える音を生み出している。確信できないけど、諦めきれない。その間で揺れ続ける心。
「今止まっていた景色が動き出した気がしたんだよ」

自分の手を繋ぐ決意をした瞬間、世界が変わります。
停滞から動きへ
「止まっていた景色」——自己喪失の中で、世界は停止していた。意味もなく、色もなく、ただ静止していた。
でも、自分を繋ぎ止めると決めた瞬間、「動き出した気がした」。
この変化の意味:
- 主体性の回復
- 世界への再関与
- 時間の再始動
- 生きる実感の回復
「気がした」という不確かさも正直です。完全に確信できたわけじゃない。でも、そう感じた。その小さな変化が、全てを変え始める。
「ほら 僕の鼓動も確かに刻み始めた4拍子」
そして、身体も反応し始めます。
「4拍子」の象徴性:
- 音楽の基本リズム
- 心臓の拍動
- 歩く時のリズム
- 生きることのリズム
- 「普通」への回帰
「確かに」という言葉に、実感が込められています。もう「気がする」だけじゃない。確かに感じられる。
「不器用な僕も描き出してみるよ 終わりに向かってゆく明日を」

最後の決意表明。
「不器用な僕も」という自己受容
完璧じゃない自分。上手くできない自分。それでも「描き出してみる」と宣言する。
| 諦めの姿勢 | 挑戦の姿勢 |
|---|---|
| 器用じゃないからできない | 不器用だけどやってみる |
| どうせうまくいかない | それでも描いてみる |
| 意味がないから動かない | 意味を作り出す |
「終わりに向かってゆく明日を笑って迎える意味を」
人生は「終わりに向かってゆく」もの。これは避けられない事実。
でも、その明日を「笑って迎える意味を」描き出す。
この「意味」の探求:
- 終わりがあるからこそ、今が輝く
- 有限だからこそ、大切にできる
- 死に向かっているからこそ、生きる意味がある
- 悲しみで終わらせないための、自分なりの答え
冒頭で「意味はないんだって」と叫んでいた僕が、最後には「意味を」描き出そうとしている。この変化が、曲全体の成長の軌跡を示しています。
まとめ:震えながらも、繋ぎ止める勇気

「トレモロ」は、現代を生きる私たちの実存的な苦悩を描いた曲です。
この曲が描く旅路
- 美しい夜の下での語り → 詩的な導入
- コミュニケーションのもどかしさ → 人間関係の困難
- 虚無への誘惑 → 意味の喪失
- 感受性の麻痺 → 現代社会の病理
- 自己分裂の危機 → 「僕が僕から離れてく」
- 真実の美しさの再発見 → 転換点
- 自己救済の決意 → 「僕は僕の手を」
- 世界の再始動 → 景色が動き出す
- 生きる意味の創出 → 最後の宣言
「トレモロ」という震えの意味
この曲全体が、一つの大きな「震え」です。
震えているもの:
- 確信と疑いの間
- 希望と絶望の間
- 繋がりと離別の間
- 意味と無意味の間
- 自己と非自己の間
でも、その震えこそが生きている証なのかもしれません。完全に確信できる人生なんてない。常に揺れ動いている。その不安定さを抱えながら、それでも「僕は僕の手を離さないよ」と言える強さ。
現代を生きる私たちへのメッセージ
RADWIMPSのこの曲は、多くの現代人が感じている感覚を言語化してくれています。
- 本当のことが言えない苦しさ
- 奇跡に感動できなくなった心
- 自分が自分でなくなっていく恐怖
- それでも、自分を繋ぎ止めようとする意志
そして、最も重要なメッセージ:不器用でも、不確かでも、震えながらでも、描き出してみていい。
あなたの明日も、終わりに向かっています。でも、その明日を笑って迎える意味を、あなたは描けるはずです。
今、あなたは自分の手を、しっかりと繋いでいますか?


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