RADWIMPS『おしゃかしゃま』歌詞の意味を徹底考察|神様気取りの人類への痛烈な問いかけ

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RADWIMPSの『おしゃかしゃま』。この独特なタイトルを見たとき、あなたは何を感じましたか?

「おしゃかしゃま」——お釈迦様。仏教の開祖、ゴータマ・シッダールタの尊称です。でもひらがなで、少し崩して書かれることで、畏敬の念よりも、親しみや、あるいは皮肉めいたニュアンスが生まれています。

この曲が問いかけるのは、宗教の教えそのものではなく、「神様」という存在と、それを都合よく利用する人間の在り方。そして、神様気取りになってしまった人類への、痛烈な批判と自嘲なのだと、私は感じます。

「カラスが増えたから殺します さらに猿が増えたから減らします でもパンダは減ったから増やします けど人類は増えても増やします」

冒頭から、人間の傲慢さが容赦なく描かれます。この四行に、すべてが凝縮されているのです。

「カラスが増えたから」という、人間中心主義の極致

冒頭の四行を、一つずつ見ていきましょう。

「カラスが増えたから●します」——カラスは害鳥とされ、駆除される。 「さらに猿が増えたから減らします」——猿も、農作物を荒らすから駆除される。 「でもパンダは減ったから増やします」——パンダは可愛いから、絶滅危惧種だから、保護する。

そして最後、 「けど人類は増えても増やします」

私は、この最後の一行に、この曲の核心があると感じます。

カラスや猿は「増えたから」●す。でも人類は「増えても」さらに増やす。この矛盾。この傲慢さ。

誰が決めたのか?カラスや猿は●してもいいけど、パンダは守る。そして人類は、どれだけ増えても問題ない。その基準は、すべて人間が勝手に決めている。

それが、人間中心主義の極致なのです。

「僕らはいつでも神様に願って拝んでても いつしかそうさ僕ら人類が 神様に」という、逆転

そして、この曲の最も重要なテーマが語られます。

「僕らはいつでも神様に願って拝んでても いつしかそうさ僕ら人類が 神様に 気付いたらなってたの 何様なのさ」

最初は、神様に願い、拝んでいた。でも「いつしか」人類が神様になっていた。

「気付いたらなってた」——この無自覚さが、怖いと私は感じます。意図的に神になろうとしたのではなく、気づいたらなっていた。

そして「何様なのさ」——この問いかけ。人類は、一体何様なのか?神様になった覚悟も資格もないのに、神様のように振る舞っている。その滑稽さと、危険性。

「僕は見たことはないんだ あちらこちらの絵画で見るんだ」という、神の姿

そして、興味深い観察が続きます。

「僕は見たことはないんだ あちらこちらの絵画で見るんだ さらに話で聞いてる神様は どれもこれも人の形なんだ」

神様を見たことがある人はいない。でも、絵画や話の中の神様は、「どれもこれも人の形」。

これは、とても重要な指摘だと私は感じます。

キリスト教の神も、ギリシャ神話の神々も、日本の神道の神も——ほとんどが人間の姿をしている。あるいは、人間のような感情を持っている。

なぜか?それは、神を創造したのが人間だからです。人間が、自分たちの姿に似せて、神を作り出した。

「偶然の一致か 運命の合致 はたまた 自分勝手スケッチ あっち こっち そっちってどっち 一体どうなってるんダ・ヴィンチ」

「偶然の一致」なのか、「運命の合致」なのか——いや、「自分勝手スケッチ」なのではないか。つまり、人間が勝手に描いただけなのではないか。

「ダ・ヴィンチ」という名前が出てくるのは、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた宗教画が無数にあるからでしょう。神や天使を、人間の姿で描いた。その絵が、神のイメージを作ってきた。

「来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ」という、開き直り

そして、宗教が説く「来世」への問いかけ。

「来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ 生まれ変わったって 変わらなくたって んなこたぁどうだっていいんだ」

来世の存在は、多くの宗教の核心的な教えです。でも「だから何だって言うんだ」と。

来世があろうがなかろうが、生まれ変わろうが変わるまいが、「どうだっていい」——この開き直りが、野田洋次郎らしいと私は感じます。

来世を信じて善行を積む、という宗教的な生き方を否定しているのではありません。ただ、来世の有無に関わらず、今をどう生きるかが大事だと言っているのです。

「人はいつだって 全て好き勝手 なんとかって言った 連鎖の上に立ったって」という、食物連鎖の頂点

そして、人間の立ち位置が語られます。

「人はいつだって 全て好き勝手 なんとかって言った 連鎖の上に立ったって なおもてっぺんが あるんだって言い張んだよ」

「なんとかって言った連鎖」——食物連鎖のことでしょう。人間は、食物連鎖の頂点に立った。でも「なおもてっぺんがあるんだって言い張んだ」。

つまり、食物連鎖の頂点に立っても満足せず、さらにその上——神の領域——に立とうとしている。その飽くなき欲望。

私は、この歌詞に人間の傲慢さの本質を感じます。どこまで行っても満足しない。常に上を目指す。それが進歩の原動力でもあるけれど、同時に傲慢さの源でもあるのです。

「もしもこの僕が神様ならば」という、思考実験

そして、野田洋次郎は思考実験を始めます。

「もしもこの僕が神様ならば 全てを決めてもいいなら 7日間で世界を作るような 真似はきっと僕はしないだろう」

「7日間で世界を作る」——旧約聖書の創世記で、神は7日間で世界を創造したとされています。その批判。

「きっともっとちゃんと時間をかけて また きちっとした計画を立てて」

もっと時間をかけて、計画を立てて——つまり、今の世界は不完全だと。神が作ったにしては、問題が多すぎると。

「だって焦って急いで 作ったせいで 切って張って 作って壊して 増やして減らして 減らしたら増やして なして どうして ってなんでかって?」

この繰り返しが、現在の世界の混沌を表しています。作っては壊し、増やしては減らす。一貫性のない、場当たり的な対応。

そして「なして どうして ってなんでかって?」という問いかけ。

「『?』出したフリして 分かってるくせして」という、知っていながら問う偽善

そして、痛烈な批判が続きます。

「『?』出したフリして 分かってるくせして 『話して 聞かせて なんでなんで』 だって馬鹿なんだって人類なんて そりゃそうなんだって分かってるって」

問題の原因は分かっている。自分たちが悪いと分かっている。でも「分からないフリ」をして、「なんでなんで」と問う。その偽善。

「だから1、2、3で滅んじゃえばいいんだって」

そして自暴自棄な結論。もう滅んでしまえばいい。

「だって なんてったって馬鹿は死なないと治らない なら考えたって仕方がない」

「馬鹿は死ななきゃ治らない」——ことわざの引用。つまり、人類は変わらない。なら、考えても無駄。

私は、この諦めと自嘲に、深い絶望を感じます。でも同時に、その絶望を笑いに変えようとする強さも感じるのです。

「さぁ来世のおいらに期待大 でも待って じゃあ現世はどうすんだい」という、逃避への批判

そして、重要な転換点が来ます。

「さぁ来世のおいらに期待大 でも待って じゃあ現世はどうすんだい」

来世に期待する——これは、現世からの逃避です。今がダメでも、来世で頑張ればいい。

でも「待って じゃあ現世はどうすんだい」——この問いかけが、核心を突いています。

来世に逃げて、今は諦める?それでいいのか?

私は、ここにこの曲の最も重要なメッセージがあると感じます。来世があろうがなかろうが、今をどうするかが問題なのだと。

「さぁ無茶しよう そんで苦茶しよう 二つ合わさって無茶苦茶にしよう」という、破壊的創造

そして、野田洋次郎は提案します。

「さぁ無茶しよう そんで苦茶しよう 二つ合わさって無茶苦茶にしよう さぁ有耶しよう そんで無耶しよう 二つ合わさって有耶無耶にしよう」

「無茶」と「苦茶」で「無茶苦茶」。「有耶」と「無耶」で「有耶無耶」。この言葉遊び。

一見、破壊的で、投げやりに見えます。でも私は、ここに別の意味を感じます。

既存の秩序を一度壊す。有耶無耶にする。そこから、新しい何かが始まるかもしれない。その可能性。

完璧な計画や、正しい答えなんてない。なら、無茶苦茶にして、有耶無耶にして、そこから何が生まれるか見てみよう。その実験的な姿勢。

「ならば どうすればいい? どこに向かえばいい いてもいなくなっても いけないならば どこに」という、出口のなさ

そして、混乱と問いが続きます。

「だからなんだって ダメになったって 先があんだって言うんだ なぜになんだって ポイしちゃっといて 次はなんだって言うんだ」

ダメになっても、「先がある」と言う。捨てても、「次がある」と言う。その無責任さへの批判。

「だがしかしbut けどけれどyet 何をどうやっていいんだ」

「だがしかし」「けどけれど」——日本語と英語で、逆接の接続詞を並べる。でも、その後に続く答えがない。「何をどうやっていいんだ」。

「何を言ったって 何をやったって ダメだダメだって言うんだ ならば どうすればいい? どこに向かえばいい いてもいなくなっても いけないならば どこに」

何をしてもダメと言われる。いても、いなくても、ダメ。なら、どうすればいい?どこに行けばいい?

この出口のなさ。この閉塞感。現代社会を生きる多くの人が感じている、答えのない苦しみが、ここには表現されているのです。

「上じゃなくたって 下じゃなくたって 横にだって道はあんだ」という、希望

でも、曲の最後に、一筋の光が差します。

「来世があったって 仮に無くたって だから何だって言うんだ 生まれ変わったって 変わらなくたって んなこたぁどうだっていいんだ 天国行ったって 地獄だったって だからなんだって言うんだ」

これまでと同じフレーズ。でも、最後に新しい一行が加わります。

「上じゃなくたって 下じゃなくたって 横にだって道はあんだ」

上(天国、成功、上昇)でもなく、下(地獄、失敗、転落)でもなく、「横」にも道はある。

私は、この最後の一行に、深い救いを感じます。

私たちは、常に上か下かで考えてしまいます。成功か失敗か。天国か地獄か。でも、「横」——つまり、そのどちらでもない、別の方向——にも道はある。

上を目指さなくてもいい。下に落ちる必要もない。ただ、横に、自分の道を進めばいい。その肯定が、この一行には込められているのです。

タイトル『おしゃかしゃま』が示す、悟りへの問いかけ

最後に、もう一度タイトルについて考えてみましょう。

『おしゃかしゃま』——お釈迦様。

お釈迦様は、悟りを開いた人です。苦しみから解放され、真理に到達した。

でもこの曲は、そんな簡単に悟れるのか?と問いかけているように感じます。

人間は愚かで、傲慢で、神様気取りになっている。そんな人間が、簡単に悟れるはずがない。

でも同時に、だからこそ問い続けなければならない。「どうすればいい?」「どこに向かえばいい?」と。

その問いの先に、もしかしたら「横の道」が見えるかもしれない。それが、この曲が示唆する希望なのです。

まとめ:神様気取りの人類への警鐘と、それでも生きる道

今回は、RADWIMPSの『おしゃかしゃま』の歌詞に込められた想いを考察してきました。最後に、この記事のポイントをまとめてみましょう。

人間中心主義への批判 「カラスは殺すけどパンダは増やす、人類はもっと増やす」——その傲慢さと矛盾。

気づいたら神様になっていた人類 願う側から、決める側へ。その無自覚な転換の恐ろしさ。

神は人間が作った 「どれもこれも人の形」——神を創造したのは、実は人間自身。

来世への逃避の批判 「来世に期待」ではなく、「現世はどうすんだい」という問い。

無茶苦茶にする勇気 既存の秩序を壊すことから、新しい何かが始まるかもしれない。

出口のない閉塞感 「何をしてもダメ」と言われる現代の苦しみ。

横にも道はある 上でも下でもない、第三の道の提示。

『おしゃかしゃま』は、人類への痛烈な批判であり、同時に自嘲でもあります。そして何より、出口を探す必死の叫びでもあるのです。

神様気取りになってしまった人類。でも実は、何をどうすればいいか分からない。上に行くべきか、下に行くべきか。いや、そもそもいていいのか、いない方がいいのか。

その混乱の中で、最後に示されるのが「横にだって道はあんだ」という希望。

完璧な答えはない。正しい道もない。でも、自分なりの道を、横に向かって歩いていけばいい。

それが、この曲が最終的に辿り着く、ささやかだけれど確かな希望なのだと、私は感じています。

あなたは今、どの方向を向いていますか?上を目指していますか?下を恐れていますか?もしそのどちらでもないなら、横を見てみてください。そこにも、道はあるのですから。

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