Mrs. GREEN APPLEの「インフェルノ」。インフェルノとは、イタリア語で「地獄」を意味する言葉です。ダンテの『神曲』地獄篇の原題としても知られるこの言葉を、大森元貴はなぜタイトルに選んだのか。それは、私たちの日常そのものが、ある種の地獄だからではないでしょうか——安全で快適なはずの現代社会が、実は刺激がなく退屈で、思考停止に陥り、気づけば炎に包まれている。そんな皮肉な現実を、この曲は鋭く切り取っています。
冒頭の「照らすは闇」という逆説から始まるこの曲は、光と闇、炎と水、永遠と終わり——そういった対極にあるものを並置しながら、私たちが生きる世界の矛盾を浮き彫りにしていきます。そして最後に辿り着くのは、「地獄じゃあるまいし」という開き直りと、それでも「命の火が消えるその日まで歩いてゆく」という静かな決意なのです。

東京都出身33歳。数百曲の歌詞を分析してきた実績を持つ、”裏テーマ発掘”専門ブロガー。表層的な意味に惑わされず、作者の無意識、社会の深層を映す鏡としての歌詞を学術的な視点で考察します。読み終わった後、その曲が別物に聴こえます。
- 闇が照らすという逆説と、歩き慣れた日々の淘汰
- 安泰な暮らしという夢と、刺激不足のタラタラした現実
- 照らすは熄み、道はどこだという方向喪失
- 時はたまに癪だが、温もりに包まれる瞬間
- 炎が立つ導の方へ、優しいメロディーの記憶
- 永遠は無いのだと云フ、それでも笑ってみる覚悟
- 輝けば光も絶える、それでも命の火を灯し続ける
- 思考を急に辞めている僕らと、知識不足のハラハラ
- 食せばYummy、ヨスガに縋り付いて朽ちていく
- 業火の中で水面が立つ、光の方へ手を取る新しい記憶
- 夜空が分かつ導と、堅苦しいセオリーの遮断
- やっぱ苦しいねと泣いてみる、風船が萎むか割れる現実
- 命の泉を護り続けて繋いでゆく使命
- 学びきれず伝えきれず遊びきれず、それでも面倒臭い人生
- 音が出る玩具も痛みを飛ばす魔法も、全部宝物
- 結び – 地獄を地獄と認めた上で、それでも歩く
闇が照らすという逆説と、歩き慣れた日々の淘汰

「照らすは闇 僕らは歩き慣れてきた」——この冒頭の一行は、通常の論理を逆転させています。闇は本来、何も照らしません。光こそが照らすもののはずです。でも、この曲では闇が照らす。この逆説が示しているのは、私たちが「光」だと思っていたものが、実は本当の明るさではなかったという気づきかもしれません。
「日々も淘汰」という言葉が続きます。淘汰——自然選択によって、適応できないものが消えていくプロセス。つまり、歩き慣れていた日々、当たり前だと思っていた日常が、実は自然選択の対象であり、いつか消えてしまうものだという認識。安定していると思っていた日常が、実は脆く、流動的なものだったという発見が、ここには込められています。
安泰な暮らしという夢と、刺激不足のタラタラした現実
「夢は安泰な暮らしだが 刺激不足故にタラタラ」——この二行が、現代人のジレンマを端的に表現しています。私たちの多くが求めるのは「安泰な暮らし」です。安定した収入、安全な住居、予測可能な未来。でも、その安泰さを手に入れると、今度は「刺激不足」で退屈になる。
安定と刺激のパラドックス
| 状態 | メリット | デメリット |
|---|---|---|
| 不安定 | 刺激的、成長 | 不安、危険 |
| 安定 | 安心、予測可能 | 退屈、停滞 |
人間は不安定だと安定を求め、安定すると刺激を求める——このどちらにも満足できない生き物なのです。「タラタラ」という擬音語が、その倦怠感をよく表しています。張り合いのない、だらけた時間の流れ。安全だけど、何も起きない日々。
照らすは熄み、道はどこだという方向喪失

「照らすは熄み 僕らの歩き慣れていた道はどこだ」——「熄み(やみ)」とは、火が消えること。先ほど「闇が照らす」と言っていたのに、今度はその闇さえも消える。何も照らすものがなくなった時、人は道を見失います。「歩き慣れていた道はどこだ」という問いは、人生の方向性を見失った現代人の叫びです。
これまで当然のように歩いてきた道——学校、就職、結婚、老後——そういった定型的な人生のコースが、もう見えなくなっている。あるいは、見えていても、それが本当に自分の道なのか確信が持てない。その迷いが、この一行に凝縮されています。
時はたまに癪だが、温もりに包まれる瞬間

「時はたまに癪だが 温もりに包まれ只」——「癪(しゃく)」とは、腹立たしいこと、気に入らないこと。時間の流れが腹立たしい——それは、時間が勝手に進んでいくことへの苛立ちでしょう。待ってほしい時には待ってくれず、早く過ぎてほしい時にはゆっくり進む。そんな時間の不条理さ。
でも、その腹立たしい時間の中でも、「温もりに包まれ」る瞬間がある。誰かと過ごす時間、心地よい瞬間、安らぎの時——そういった「温もり」が、時間の癪に障る性質を一時的に忘れさせてくれる。その束の間の救いが、「只」という言葉で表現されています。
炎が立つ導の方へ、優しいメロディーの記憶

「炎が立つ 導の方へ 思い出すは優しいメロディー」——ここで「炎」が登場します。タイトルの「インフェルノ(地獄の炎)」に繋がるこの炎は、破壊の象徴であると同時に、導きの光でもあります。闇の中で、炎だけが道を照らす。その炎に導かれて進む——それは危険な道かもしれないけれど、少なくとも方向性はある。
「思い出すは優しいメロディー」という一行が、切ないのは、その優しさが「思い出」、つまり過去のものだからです。今ここにはない。でも、その記憶が、炎の中を進む力になっている。過去の優しさが、現在の地獄を歩く糧になる——その時間の層の重なりが、この曲に深みを与えています。
永遠は無いのだと云フ、それでも笑ってみる覚悟
「永遠は無いんだと 無いんだと云フ それもまたイイねと笑ってみる」——この部分が、曲の哲学的な核心です。「云フ」という旧仮名遣いが、この真理に古典的な重みを与えています。永遠はない——これは、諸行無常という仏教的真理でもあり、エントロピー増大の法則という物理学的真理でもあります。
永遠の不在と向き合う態度
真理:永遠は無い
↓
反応①:絶望する、悲しむ
反応②:「それもまたイイね」と笑う
この曲が選ぶのは後者です。永遠がないことを嘆くのではなく、「それもまたイイね」と受け入れる。この「笑ってみる」という表現——「笑う」ではなく「笑ってみる」——には、まだ完全には受け入れきれていない、でも笑おうとする努力が感じられます。それが、人間らしい誠実さなのです。
輝けば光も絶える、それでも命の火を灯し続ける

「輝けばいつかは光も絶える 僕らは命の火が消えるその日まで歩いてゆく」——この二行が、曲の一つの結論を示しています。輝くこと——成功、名声、幸福——それらはいつか必ず終わる。光は絶える。でも、だからといって輝かないという選択肢はない。
「命の火が消えるその日まで歩いてゆく」という決意は、シンプルですが力強い。死ぬまで歩く——それ以上でも以下でもない。特別な目標や大きな意味を求めるのではなく、ただ、生きている限りは歩き続ける。その淡々とした決意が、逆に深い覚悟を感じさせます。
思考を急に辞めている僕らと、知識不足のハラハラ

「ところで何故 僕らは思考を急に辞めているんだ 夢は安泰な暮らしだが 知識不足故にハラハラ」——ここで、先ほどの「刺激不足故にタラタラ」と対になる言葉が登場します。「知識不足故にハラハラ」。
現代社会では、情報は溢れているのに、本当の知識は不足しています。スマホで簡単に検索できるから、記憶する必要がない。でも、その場しのぎの情報だけでは、深く考えることができない。だから「思考を急に辞めて」しまう。そして、いざという時に知識がないことに気づいて「ハラハラ」する。この悪循環が、現代人の知的怠惰を鋭く指摘しています。
食せばYummy、ヨスガに縋り付いて朽ちていく

「食せばYummy ヨスガに縋り付いたまま朽ちて行くんだ」——「Yummy」という軽い英語スラングと、「ヨスガ(憑)」という古めかしい漢字の組み合わせが面白い効果を生んでいます。食べれば美味しい——その刹那的な快楽。でも、それは「憑」、つまり頼りにするもの、縋り付くものに過ぎない。
現代社会では、食べ物、SNSの「いいね」、物質的な消費——そういった小さな快楽に縋り付きながら、気づけば人生が過ぎていく。「朽ちて行く」という表現が、生きることではなく、ただ腐敗していくだけの時間の過ごし方を示唆しています。
業火の中で水面が立つ、光の方へ手を取る新しい記憶

「ここは業火の中だが 傷跡がヒリつき只 水面が立つ 光の方へ 手を取るは新しいメモリー」——「業火」という言葉が、この曲の地獄のイメージを強化します。業火とは、仏教において、業(カルマ)によって燃える地獄の炎のこと。つまり、ここは地獄なのだと明言しています。
でも、その業火の中でも、「傷跡がヒリつ」いても、「水面が立つ」——水は炎の対極にあるもの。地獄の中にも、救いの兆しがある。そして「手を取るは新しいメモリー」——先ほどは「優しいメロディー」という過去の記憶でしたが、今度は「新しい」記憶。つまり、過去だけでなく、今この瞬間に作られる新しい記憶が、地獄を歩く力になる、という希望が示されています。
夜空が分かつ導と、堅苦しいセオリーの遮断

「夜空が分かつ 導の方へ 遮るは堅苦しいセオリー」——夜空が「分かつ」——つまり、境界を作る。でもその境界の向こうには「導」がある。夜空という広大で自由なイメージが、新しい方向性を示してくれる。
一方で「遮るは堅苦しいセオリー」——理論、常識、既成概念——そういったものが、新しい道を遮る。現代社会は、あまりにも多くの「セオリー」に縛られています。「こうあるべき」「これが正しい」——そういったルールが、自由な思考を妨げている。その「堅苦しさ」への反発が、ここには込められています。
やっぱ苦しいねと泣いてみる、風船が萎むか割れる現実

「永遠は無いんだと 無いんだと云フ やっぱ苦しいねと泣いてみる 風船もいつかは萎むか割れる」——先ほどは「それもまたイイねと笑ってみる」と言っていたのに、今度は「やっぱ苦しいねと泣いてみる」。この変化が、人間の揺れ動く心を表しています。
笑ってみたけど、やっぱり苦しい。受け入れようとしたけど、やっぱり辛い。その正直さが、この曲をリアルにしています。そして「風船もいつかは萎むか割れる」という比喩——膨らんだ風船は、時間が経てば萎むか、あるいは突然割れる。夢も、希望も、幸福も、同じように終わる。その儚さを、風船という身近なイメージで表現しています。
命の泉を護り続けて繋いでゆく使命

「僕らは命の泉を護り続けて繋いでゆく」——先ほどは「命の火」でしたが、ここでは「命の泉」。火と水——相反する二つのイメージが、共に「命」を表現しています。火は消えるもの、でも泉は湧き続けるもの。その両方の側面を持つのが、命なのだと。
「護り続けて繋いでゆく」という表現に、世代を超えた視点があります。自分の命だけでなく、次の世代へと繋いでいく——生命の連鎖への意識。個人の死は避けられないけれど、生命そのものは繋がっていく。その大きな流れの中に自分を位置づける視点が、ここには示されています。
学びきれず伝えきれず遊びきれず、それでも面倒臭い人生

「学びきれずに卒業 伝えきれずに失恋 遊びきれずに決別 面倒臭いが 地獄じゃあるまいし」——この畳みかけるような三つの「きれずに」が、人生の不完全燃焼を表現しています。
人生の不完全性
- 学びきれずに卒業:まだ学びたいことがあるのに、時間切れ
- 伝えきれずに失恋:言いたいことを言えないまま、終わる
- 遊びきれずに決別:もっと一緒にいたかったのに、別れる
人生は常に、やり残しだらけです。完全に学ぶことも、完全に伝えることも、完全に遊び尽くすこともできない。でも「面倒臭いが」——その不完全さは面倒だけど——「地獄じゃあるまいし」という開き直り。これが地獄だと思えば地獄だけど、そう思わなければ、まだマシだ——そんな相対的な認識の転換が、ここで起こっています。
音が出る玩具も痛みを飛ばす魔法も、全部宝物

「音が出る玩具も 痛みを飛ばす魔法も 全部僕にとっての宝物」——この二行が、曲の中で最も温かい部分かもしれません。「音が出る玩具」——子どもの頃の単純な喜び。「痛みを飛ばす魔法」——おそらく音楽のことでしょう。音楽は、痛みを忘れさせてくれる魔法です。
そして「全部僕にとっての宝物」という肯定。地獄のような人生でも、小さな喜びがある。単純な楽しみがある。それらが全て、宝物なのだと。この肯定が、曲全体の絶望を和らげ、生きることへの肯定へと繋がっていきます。
結び – 地獄を地獄と認めた上で、それでも歩く
「インフェルノ」という曲は、人生を地獄に喩えながらも、その地獄を否定しません。むしろ、「ここは業火の中だが」「地獄じゃあるまいし」と、地獄であることを認めた上で、それでも生きていこうとします。
この曲が提示するのは、安易な希望ではありません。「永遠は無い」「輝けば光も絶える」「学びきれず伝えきれず遊びきれず」——人生の不完全性、儚さ、苦しみを直視します。でも、その上で「僕らは命の火が消えるその日まで歩いてゆく」と言う。
Mrs. GREEN APPLEの楽曲の中でも、特に哲学的で、大人びたこの曲は、若者の叫びというよりも、人生の中盤を過ぎた者の達観に近い視点を持っています。でも、その達観は諦めではなく、むしろ覚悟なのです。地獄だと分かっていても、音が出る玩具と痛みを飛ばす魔法を持って、笑ったり泣いたりしながら、歩き続ける——それが、この曲が描く人間の姿なのです。


コメント