RADWIMPSの「狭心症」。医学用語としての狭心症は、心臓に血液が十分に供給されず、胸が締め付けられるような痛みを感じる病気です。でも、この曲が描く「狭心症」は、もっと根源的な苦しみ——世界の痛みを前に、自分の心の「狭さ」に苦しむ病なのだと、私は思います。
この曲は、RADWIMPSの中でも特に過激で、哲学的で、そして痛切です。世界の不条理、神への問い、そして自己嫌悪と自己防衛——それらが激しく渦巻く、まるで野田洋次郎の魂の叫びのような作品。
今回は、この重く深い楽曲を、できる限り丁寧に読み解いていきたいと思います。

東京都出身33歳。数百曲の歌詞を分析してきた実績を持つ、”裏テーマ発掘”専門ブロガー。表層的な意味に惑わされず、作者の無意識、社会の深層を映す鏡としての歌詞を学術的な視点で考察します。読み終わった後、その曲が別物に聴こえます。
- 「この眼が二つだけでよかったなぁ」— 制限された視界への感謝
- 「それなのに人はなに血迷ったかわざわざ広いこの世界の至る所にご丁寧に眼付けて」
- 「僕は僕の悲しみで 精一杯なの」— 自己防衛の告白
- 「見ちゃいけないなら 僕がいけないなら 針と糸すぐほら持ってきてよ」
- 「1が1であるために今日も僕はね100から 99も奪って生きてるんだ」
- 「下には下がいるって 喜びゃいいの?」
- 「僕は僕の悲しみも 憂いちゃいかんとさ」
- 「涙腺など とうに切っといてよ 生まれた時にさ へその緒の前にさ」
- 「今日もあちらこちらで 命は消えるはずなのに」
- 「なんて素晴らしい世界だ ってなんでなんだか」
- 「見なきゃいけないなら 僕がいけないなら 目蓋の裏にでも貼っといてよ」
- 「この耳が二つだけでよかったなぁ」
- 「僕は僕を 幸せにする機能でいっぱい いっぱい いっぱい いっぱい」
- 「僕らの下にも次の命が宿った時には」— 最後の祈り
- まとめ:狭い心で生きる罪と、それでも生きる勇気
「この眼が二つだけでよかったなぁ」— 制限された視界への感謝

冒頭のこのフレーズが、曲全体のテーマを提示しています。
「見えすぎる」ことの恐怖
「世界の悲しみがすべて見えてしまったら僕は到底生きていけはしないから」
人間の目が二つだけであることの意味:
- 視野が限られている
- すべては見えない
- 知らないことがある
- だから、生きていける
私は、この逆説的な感謝に、深い真実を感じます。もし世界中の苦しみ、悲しみ、痛みが全部見えてしまったら、私たちは確かに耐えられない。
世界で今この瞬間起きていること:
- 戦争
- 飢餓
- 病気
- 虐待
- 孤独死
- 無数の苦しみ
それを全部見てしまったら、精神が壊れてしまう。だから、目は二つだけ。視野は限られている。それは、生き延びるための「設計」なのかもしれない。
「うまいことできた世界だ いやになるほど」
この「いやになるほど」が秀逸です。
この言葉の両義性:
- うまくできすぎていて、嫌になる(皮肉)
- 生きるために見えなくされているという事実が、嫌になる
- でも、それを認めざるを得ない自分も、嫌になる
「それなのに人はなに血迷ったかわざわざ広いこの世界の至る所にご丁寧に眼付けて」

ここで、現代社会への批判が始まります。
メディアという「追加された眼」
「眼付けて あーだこーだと」
現代の「眼」:
- テレビ
- インターネット
- SNS
- ニュース
- カメラ(監視カメラ、スマホ)
私たちは、本来見えないはずだった世界中の出来事を、今や見ることができる。いや、見せられている。
情報過多の時代:
- 地球の裏側の悲劇がリアルタイムで届く
- 知りたくなかった現実を知ってしまう
- 「知らなかった」では済まされない
- 見ないことが、罪になる時代
「わざわざ」「ご丁寧に」という皮肉な言い方に、野田洋次郎の怒りと絶望を感じます。
「僕は僕の悲しみで 精一杯なの」— 自己防衛の告白

この告白が、曲の核心だと私は思います。
キャパシティの限界
「僕は僕の悲しみで 精一杯」
この正直さの重さ:
- 世界の苦しみを受け止める余裕はない
- 自分のことで手一杯
- でも、それを言うことへの罪悪感
- 言わずにいられない切実さ
| 社会が求めるもの | 個人の現実 |
|---|---|
| 世界の問題に関心を | 自分のことで精一杯 |
| みんなで助け合おう | 自分を守るのに必死 |
| 無関心ではいけない | 関心を持つ余裕がない |
私も、ニュースで悲劇を見るたび、「何かしなければ」と思いながら、結局何もできない自分に罪悪感を感じます。でも、本当に、自分の人生を生きるだけで精一杯なんです。
「見ちゃいけないなら 僕がいけないなら 針と糸すぐほら持ってきてよ」

ここから、自傷的な願いが始まります。
目を塞ぐという極端な解決策
「塞いでしまうから 縫ってしまうから」
この願いの絶望:
- 見ることが苦しみなら、見えなくすればいい
- 罪悪感を感じるなら、物理的に見れなくすればいい
- 極端だけど、論理的
- でも、本当にそれを望んでいるわけじゃない
「最後にまとめて全部見してよ」——死ぬ時に、一気に見せてくれ、という意味でしょうか。生きている間は見たくない。でも、最後には向き合わなければいけないことも、分かっている。
「1が1であるために今日も僕はね100から 99も奪って生きてるんだ」

この数学的な比喩が、鋭い自己認識を示しています。
ゼロサムゲームとしての人生
この計算が示すこと:
- 誰かが1を得るために、他の誰かが99を失う
- 私の幸せは、誰かの不幸の上に成り立っている
- グローバル経済の構造的な不平等
- でも、それを知っても生きていくしかない
先進国の豊かさ
↓
途上国からの搾取
↓
構造的な不平等
↓
でも、それで生きている自分
「とんなの教えてと頼んだ覚えはないのに」——知りたくなかった真実。でも、知ってしまった。
「いいから ほら もう黙ってて イワンのバカ」
「イワンのバカ」——トルストイの童話への言及ですね。
この物語のテーマ:
- 賢い兄弟と、バカなイワン
- でも、最後に幸せになるのはイワン
- 知恵や知識が、必ずしも幸せをもたらさない
「もう黙ってて」——これ以上真実を教えないでくれ、という叫び。知れば知るほど、生きることが苦しくなる。
「下には下がいるって 喜びゃいいの?」

ここで、よくある慰めの言葉への反論。
相対的幸福への嫌悪
「世界から見れば今のあなたはどれだけ かくかくしかじかと」
この慰めの構造:
- あなたよりもっと不幸な人がいる
- だから、あなたは幸せだ
- 感謝すべきだ
でも、これって本当に慰めになるのでしょうか?
この論理の問題:
- 他人の不幸で自分の幸福を測る
- 誰かが不幸でいてくれることで、自分が「まし」だと思える
- でも、それって本当の幸福?
「下には下がいるって 喜びゃいいの?」——この問いが、その欺瞞を突いています。
「僕は僕の悲しみも 憂いちゃいかんとさ」

そして、自分の悲しみさえも否定される苦しみ。
悲しむ権利の剥奪
「泣いちゃいけないなら 僕がいけないなら」
この構造:
- 世界にはもっと不幸な人がいる
- だから、あなたは泣く資格がない
- あなたの悲しみは贅沢だ
- 黙って我慢しろ
でも、苦しみは相対的なものじゃないはずです。誰かがもっと苦しいからといって、自分の苦しみが軽くなるわけじゃない。
「涙腺など とうに切っといてよ 生まれた時にさ へその緒の前にさ」

自傷的な願いが、さらにエスカレートします。
感情の機能を失くす願い
「ついでに口 横に裂いといてよしたら辛い時や 悲しい時も何事もないように笑えるよ」
この願いの絶望:
- 泣けなくして
- 常に笑っているように見えるようにして
- そうすれば、辛くても笑顔でいられる
- ジョーカーのような、永遠の笑顔
| 求められる姿 | 実際の気持ち |
|---|---|
| 笑顔 | 辛い |
| 前向き | 悲しい |
| 強さ | 弱い |
「そうでもしないと とてもじゃないけど僕は僕をやってられないんだよ」
この悲鳴。「僕は僕をやる」という表現——自分を演じる、自分という役割を果たす。もう、自然体では生きられない。
「今日もあちらこちらで 命は消えるはずなのに」

ここで、死の不可視化への言及。
清潔すぎる現代社会
「どこを歩けど 落ちてなどいないなぁ綺麗好きにも程があるよほんとさ」
昔と今の違い:
- 昔:死は身近だった(路上で倒れる人、戦争、飢餓)
- 今:死は隠される(病院、施設、ニュースの中)
現代の先進国では、死体を見ることはほとんどありません。死は「どこか遠く」で起こっている。
この清潔さの問題:
- 死の現実感がない
- 命の有限性を実感できない
- だから、平気で生きられる
- でも、それは健全なのか?
「なんて素晴らしい世界だ ってなんでなんだか」

ルイ・アームストロングの「What a Wonderful World」への皮肉。
美しい世界という嘘
「そりゃ 色々忙しいとは思うけど主よ雲の上で何をボケっと突っ立てるのさ」
神への問い:
- なぜ、世界はこんなに不公平なのか
- なぜ、無実の人が苦しむのか
- なぜ、何もしないのか
- 本当に存在するのか
「子のオイタ叱るのが務めなんでしょ勇気を持って 拳を出して好きなようにやっちゃって」
神への挑発:
- もし本当に存在するなら、何かしてみせろ
- 罰してみろ
- でも、何も起こらない
- だから、いないのか、それとも無関心なのか
「見なきゃいけないなら 僕がいけないなら 目蓋の裏にでも貼っといてよ」
皮肉がさらに深まります。
強制的に見せる提案
「生まれた時にさ へその緒の前にさそうまでして逆らいたいなら僕が嬉しい時も 気持ちいい時も瞬くたび突き落としてよ」
この要求の意味:
- どうしても見せたいなら、目を閉じても見えるようにしてくれ
- 幸せな時も、瞬きするたびに世界の苦しみを見せてくれ
- そこまでするなら、してみろ
- でも、それは拷問だ
「だってじゃないとさ 忘れてしまうから僕の眼は二つしかないから」
この告白の正直さ:
- 人間は忘れる生き物
- 目の前にないものは、意識から消える
- だから、幸せでいられる
- でも、それは無責任なのか?
「この耳が二つだけでよかったなぁ」

目から耳へ。同じ構造の繰り返し。
聞こえすぎることの恐怖
「世界の叫び声がすべて 聞こえてしまったら僕は到底息ができないから」
聞こえてしまうもの:
- 助けを求める声
- 苦しみの叫び
- 絶望の呻き
- でも、何もできない自分
目と耳——入力装置が限られていることへの、皮肉な感謝の繰り返し。
「僕は僕を 幸せにする機能でいっぱい いっぱい いっぱい いっぱい」
この「いっぱい」の連呼。
自己保存本能の最大化
人間の自己中心的な設計:
- 自分の幸せを優先する機能
- 他者の苦しみを忘れる機能
- 見たくないものを見ない機能
- 聞きたくないものを聞かない機能
「いっぱい いっぱい いっぱい いっぱい」——この執拗な繰り返しに、自己嫌悪と、でもそれを認めざるを得ない諦めを感じます。
「僕らの下にも次の命が宿った時には」— 最後の祈り

曲の終盤で、視点が未来へ、次世代へと移ります。
子どもを守るという矛盾した愛
「見ちゃいけないなら 聴いちゃいけないなら僕らの下にも次の命が宿った時には へその緒の前にさそのすべての世界の入り口を閉じてあげるから 塞いだげるから」
この願いの意味:
| 今の自分 | 未来の子ども |
|---|---|
| 見て苦しんでいる | 見せない |
| 聞いて傷ついている | 聞かせない |
| 知って絶望している | 知らせない |
「僕が君を守ってあげるから逃がしたげるから その瞳から涙が零れることはないから」
この保護の矛盾:
- 世界の苦しみから守りたい
- でも、それは「見ない」「知らない」ことで実現する
- 無知こそが幸福?
- でも、それは本当に守ることなのか?
まとめ:狭い心で生きる罪と、それでも生きる勇気

「狭心症」は、現代を生きる私たちの根源的な苦しみを描いた曲です。
この曲が提示する問い
解決不可能な問い:
- 世界の苦しみを知って、どう生きるか?
- 自分の幸せと、他者の不幸の関係をどう考えるか?
- 見ないこと、知らないことは、罪なのか?
- でも、全部見たら、生きていけないのでは?
- 次世代を、この苦しみからどう守るか?
「狭心症」という病
この曲のタイトルは、二つの意味を持ちます:
医学的な狭心症:
- 心臓への血流不足
- 胸の締め付けられるような痛み
比喩としての狭心症:
- 心が狭いこと(世界の苦しみを受け止められない)
- でも、心を広げたら、壊れてしまう
- 狭いままでいるしかない苦しみ
- 狭いことへの罪悪感
答えのない問いを抱えて
この曲は、答えを出しません。出せません。
曲が示すのは:
- 矛盾
- 葛藤
- 罪悪感
- 自己嫌悪
- でも、生きていくしかない現実
「僕は僕の悲しみで 精一杯なの」——この正直さこそが、この曲の価値なのだと私は思います。
綺麗事を言わない。偽善を装わない。ただ、苦しみを、そのまま叫ぶ。
私たちへのメッセージ
最後に、この曲は私たちに何を伝えているのでしょうか。
おそらく:
- 完璧な人間にはなれない
- 世界のすべてを救うことはできない
- 自分のことで精一杯でも、それは仕方ない
- でも、そのことに苦しむ感受性は持ち続けよう
- 罪悪感を感じること自体が、まだ人間性の証
そして、もし子どもが生まれたら——
世界の痛みから完全に守ることはできないかもしれない。でも、「守りたい」と願うこと。その願いだけは、持ち続けよう。
狭い心でも、生きていく。 でも、狭いことを知っている。 その自覚を持って、今日も生きていく。
それが、「狭心症」を抱えて生きる、私たちの姿なのかもしれません。


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