松田聖子の『SWEET MEMORIES』。1983年にリリースされたこの曲は、サントリービールのCMソングとして大ヒットし、今なお多くの人に愛され続けています。
タイトルの「SWEET MEMORIES」——甘い記憶。でもこの曲が描くのは、決して甘いだけの恋愛ではありません。むしろ、痛みを伴う別れ、失った恋への未練、そして時間が癒してくれる傷の物語です。
「なつかしい痛みだわ」
冒頭のこの一行が、この曲のすべてを物語っているように私は感じます。「痛み」なのに「なつかしい」。この矛盾した感情こそが、過去の恋を振り返る時の本質なのではないでしょうか。
松田聖子という、当時トップアイドルだった彼女が、こんなに大人びた、切ない恋の歌を歌う。そのギャップも、この曲の魅力の一つだったのだと思います。
「ずっと前に忘れていた」のに「時間だけ後戻りした」という、記憶の不思議

歌詞は続きます。
もう忘れたと思っていた。過去のこととして、整理したつもりだった。でも、元恋人と偶然再会した瞬間、時間が巻き戻される。
私は、この「時間だけ後戻りした」という表現に、とてもリアリティを感じます。
人は、過去を整理したつもりでいます。でも、ふとしたきっかけ——昔の恋人に会う、昔の場所に行く、昔の曲を聴く——で、突然当時の感情が蘇ってくる。その不思議な記憶の働きが、ここには描かれているのです。
「時間だけ」という言葉も重要です。自分自身は変わった。成長した。でも感情だけは、あの頃のままで止まっていた。その気づきが、「なつかしい痛み」として認識されるのです。
「『幸福?』と聞かないで 嘘つくのは上手じゃない」という、正直さ

そして、元恋人との会話が想像されます。
「幸福?」と聞かれる。今、幸せですか?と。
でも「嘘つくのは上手じゃない」から、答えられない。「幸せです」と言えない。その正直さが、切ないと私は感じます。
世間体を気にするなら、「ええ、幸せよ」と答えればいい。でもそれができない。嘘をつけない。あるいは、嘘をついても相手に見透かされてしまう。
この不器用さが、主人公の純粋さを表しているのではないでしょうか。
「友だちならいるけど あんなには燃えあがれなくて」
今の人間関係について語られます。友達はいる。つまり、孤独ではない。でも、あの頃のように「燃えあがれ」ない。
私は、この「燃えあがれなくて」という表現に、若い頃の恋の特別さを感じます。
大人になると、恋愛は理性的になります。計算が入ります。リスクを考えます。でも若い頃は、何も考えず、ただ燃え上がることができた。その激しさを、今は失ってしまった。
そのことへの寂しさと、でも同時に「あんな激しさは、もう無理だ」という諦めも、ここには込められているのです。
「失った夢だけが美しく見えるのは何故かしら」という、普遍的な問い

そして、この曲の核心的なテーマが語られます。
失ったものだけが美しく見える。手に入れたものではなく、失ったものが。
これは、人間の本質的な心理ではないでしょうか。私たちは、持っているものの価値には気づきにくい。でも失った瞬間、その価値が輝いて見える。
「何故かしら」——この問いは、答えを求めているようでいて、実は答えのない問いです。なぜなら、それが人間の性だから。
私は、この歌詞に諦めと受容を感じます。「何故かしら」と問いながら、でも答えは出ない。だから、ただそれを受け入れるしかない。
「過ぎ去った優しさも 今は甘い記憶 Sweet memories」
そしてサビ。「過ぎ去った」優しさ。つまり、もう戻らない優しさ。
でもそれが「甘い記憶」として残っている。痛みも、後悔も、すべてが時間によって「甘さ」に変わっていく。
その時間の魔法が、「Sweet memories」という言葉に込められているのです。
英語のフレーズに込められた、直接的な感情

そして、英語のパートが入ります。
当時の日本の歌謡曲では、英語を入れることでオシャレさや国際性を演出することが多かったのですが、この曲の英語は、単なる飾りではありません。
キスしないで、と拒絶する。二度と一緒にはなれないから。これ以上痛みを増やさないで。もう一度傷つけないで。
この直接的な表現が、日本語の婉曲的な表現とは対照的です。日本語では「なつかしい痛み」と遠回しに言っていたことを、英語では「Don’t hurt me again」とストレートに言う。
私は、この対比に意味を感じます。日本語の部分は、自分の心の中での独白。英語の部分は、相手への直接的なメッセージ。その使い分けが、歌詞に立体感を与えているのです。
何度もあなたのことを考えた夜を過ごした。あなたの触れ合いを求めて。かつては深く愛していた。
この告白が、過去形で語られることが重要です。「loved」——愛していた。今は違う。でも、その過去の愛は確かにあった。そのことを、認めているのです。
「あの頃は若過ぎて 悪戯に傷つけあった二人」という、成熟した視点

二番では、別れの理由が語られます。
若すぎた。だから、無駄に傷つけ合った。
私は、この「若過ぎて」という言葉に、時間が経ったからこそ持てる視点を感じます。
当時は、相手が悪い、自分は悪くない、と思っていたかもしれません。でも時間が経ち、成長した今、客観的に見ることができる。あれは、お互いが若すぎたからだ、と。
「悪戯に」という言葉も、印象的です。わざとではない。意味もなく。ただ未熟だったから、傷つけ合ってしまった。
その後悔と、でも同時に許しが、この一行には込められているのです。
「色褪せた哀しみも 今は遠い記憶 Sweet memories」
そして、「色褪せた哀しみ」。
哀しみは、当時は鮮やかで、生々しかった。でも時間が経つことで「色褪せ」ていく。それは、忘れるということではなく、距離ができるということ。
「遠い記憶」——遠くから眺められるようになった。当時は近すぎて見えなかったものが、今は客観的に見える。
その距離感が、「Sweet memories」を可能にしているのです。
タイトル『SWEET MEMORIES』が示す、時間の癒し

最後に、タイトルについてもう一度考えてみたいと思います。
『SWEET MEMORIES』——なぜ「甘い」記憶なのか?
この曲が描いているのは、別れ、痛み、後悔です。決して甘い恋愛ではありません。でも、それが「甘い記憶」になっている。
それは、時間が経ったからです。
時間は、痛みを和らげます。鋭かった記憶の角を、丸くします。色を褪せさせ、距離を作ります。
そして最終的に、すべての記憶を「甘い」ものに変えてしまう。それが、時間の魔法なのです。
「失った夢だけが美しく見える」のも、同じ理由です。失ったからこそ、理想化される。欠点は忘れられ、良いところだけが記憶に残る。
それは錯覚かもしれません。でも、その錯覚こそが、私たちを過去の痛みから救ってくれるのです。
まとめ:すべての痛みは、いつか甘い記憶になる

今回は、松田聖子の『SWEET MEMORIES』の歌詞に込められた想いを考察してきました。最後に、この記事のポイントをまとめてみましょう。
なつかしい痛み 痛みなのに懐かしい——時間が経ったからこそ持てる、複雑な感情。
時間の後戻り 忘れたと思っていた感情が、ふとした瞬間に蘇る記憶の不思議。
嘘をつけない正直さ 「幸福?」と聞かれても、素直に「はい」と言えない不器用さ。
失ったものの美しさ 手に入れたものではなく、失ったものだけが美しく見える人間の性。
若さゆえの過ち 「若過ぎて悪戯に傷つけ合った」——成熟した視点からの振り返り。
時間による癒し 痛みも哀しみも、時間が経てば「色褪せ」て「甘い記憶」になる。
『SWEET MEMORIES』は、時間の癒しを歌った曲です。どんなに痛かった恋も、どんなに辛かった別れも、時間が経てば「甘い記憶」になる。
それは忘れるということではありません。距離ができて、客観的に見られるようになるということ。そして、痛みだけでなく、美しさや優しさも同時に思い出せるようになるということ。
「失った夢だけが美しく見える」——それは悲しいことかもしれません。でも同時に、救いでもあります。すべての過去を、美しい思い出に変えられる。その力を、私たちは持っているのです。
あなたにも、「なつかしい痛み」がありますか?それはもう、「甘い記憶」になっていますか?もしまだなら、時間が必要なのかもしれません。でもいつか必ず、すべての痛みは甘さに変わるのです。
それが、この曲が40年以上経った今でも愛され続ける理由なのだと、私は感じています。


コメント