RADWIMPS『筆舌』歌詞の意味を徹底考察|言葉にできない人生の重さと、それでも生きること
RADWIMPSの『筆舌』。このタイトルを見たとき、あなたは何を思いましたか?
「筆舌に尽くしがたい」という慣用句があります。言葉では言い表せないほど、という意味です。つまり、この曲のタイトルは「言葉にできない」ということを、言葉で表現しようとしているのです。
この曲を初めて聴いたとき、私は圧倒されました。野田洋次郎が描き出すのは、美化されていない、生々しい人生そのもの。友人の死、別れ、後悔、孤独——そのすべてを、淡々と、でも痛切に歌い上げています。
「電話帳の中の人が少しずつ死んでいったり」
冒頭からこの一行。衝撃的です。でもこれが、年を重ねるということの現実なのです。
- 「電話帳の中の人が少しずつ死んでいく」という、時の残酷さ
- 「あんなに好きだった人が」という、複雑な人生の軌跡
- 「生きてりゃ 色々あるよな」という、シンプルすぎる真実
- 「ダチの腹に癌が見つかり」という、避けられない現実
- 「一人ぼっちで死ぬ可能性が現実味を帯びて」という、孤独への恐怖
- 「『ずっと』とか『絶対』とか『一生』とかない」という、永遠への諦め
- 「失ってからしか気づけないような出来損ない」という、自己認識
- 「『ただいま』も『おかえり』もない日々が人生の半分以上」という、喪失の重み
- 「かつて音楽は人間の手によって作られた時代があった」という、未来への想像
- 「例え『さよなら』が来るとしても 出逢えた喜びでおかしくなんだ」という、肯定
- まとめ:言葉にできない人生の重さを、それでも歌にすること
「電話帳の中の人が少しずつ死んでいく」という、時の残酷さ

この曲の冒頭、
「電話帳の中の人が少しずつ死んでいったり 唯一行きつけの居酒屋は潰れ変な店に変わったり」
という歌詞から始まります。
私は、この「少しずつ」という言葉に、深い悲しみを感じます。一度に全部失うのではなく、「少しずつ」失っていく。その緩慢さが、かえって残酷なのです。
電話帳——今ではスマホの連絡先になっていますが——に登録されている人が、少しずつ減っていく。連絡が取れなくなり、訃報を聞き、気づけば消えていく。それが人生なのだと、この一行は静かに告げています。
そして「唯一行きつけの居酒屋は潰れ変な店に変わったり」という続き。
行きつけの店というのは、ただの場所ではありません。思い出が詰まった、心の拠り所です。それが潰れて「変な店」に変わる。その喪失感を、野田洋次郎は「変な店」という曖昧な言葉で表現するのです。
「あんなに好きだった人が」という、複雑な人生の軌跡

続く歌詞は、さらに生々しくなります。
「あんなに好きだった人が結婚して子供も産まれたり その後シングルマザーになり久しぶりに連絡がきたり」
この「あんなに好きだった人」が、今どうしているか。結婚して、幸せになったのかと思ったら、シングルマザーになって、久しぶりに連絡がくる。
私は、この歌詞の描写に、人生の複雑さを感じます。人生は単純なハッピーエンドではない。幸せになったと思ったら、また苦しみが訪れる。そして、昔好きだった人から連絡が来るという、その微妙な状況。
「ATMまで行って金貸した 脚本家の彼は今や売れっ子だけど あの時のなけなしの5000円はまだ返ってきてなかったり」
この具体的な「5000円」という金額が、リアリティを生んでいます。大金ではない、でも「なけなし」だった5000円。友人は売れっ子になったのに、まだ返ってこない。
でも私は、語り手がそれを責めているようには感じません。むしろ、そういうものだよな、という諦めと、少しの苦笑いが込められているように思います。
「生きてりゃ 色々あるよな」という、シンプルすぎる真実

そして、サビで繰り返されるのが、
「生きてりゃ 色々あるよな 生きてりゃ 色々あるよなぁ そりゃそうだよなぁ そりゃそういうもんだな」
というフレーズです。
「色々ある」——なんとシンプルで、でも重い言葉でしょうか。
人生を一言で言い表すなら、「色々ある」。良いことも悪いことも、予想通りのことも予想外のことも、すべてひっくるめて「色々ある」のです。
「そりゃそうだよなぁ」「そりゃそういうもんだな」という繰り返しも、印象的です。これは自分に言い聞かせているような、諦めとも受容ともつかない、複雑な感情が表れているように私は感じます。
人生はこういうものだ。仕方がない。でもそれでも、生きていく。その覚悟が、このシンプルな言葉に込められているのではないでしょうか。
「ダチの腹に癌が見つかり」という、避けられない現実

二番では、さらに重いテーマが登場します。
「ダチの腹に癌が見つかり なんかヤケに食らったり いつ死んでもいいとか言ってた俺も検査に行ってみたり」
友人の病気。それが「なんかヤケに食らったり」——この「なんか」「ヤケに」という曖昧な言葉が、かえって衝撃の大きさを表しているように感じます。
そして「いつ死んでもいいとか言ってた俺も検査に行ってみたり」という自己認識。
若い頃、私たちは「死んでもいい」なんて軽く言います。でも友人の病気を知った時、自分も検査に行く。つまり、本当は死にたくないのです。死ぬのが怖いのです。その矛盾を、野田洋次郎は正直に歌います。
「小3だったあの生意気な親友の子供は今じゃ高校にあがり 親の金くすねコンドーム買っていたり」
時間の経過が、具体的に描かれます。小学3年生だった子が、もう高校生。そして「コンドーム買っていたり」という、思春期のリアル。
私は、この描写に時間の残酷さと同時に、生命の連続を感じます。自分たちは歳を取るけれど、子どもたちは育っていく。それが人生の流れなのです。
「一人ぼっちで死ぬ可能性が現実味を帯びて」という、孤独への恐怖

そして、こんな告白が続きます。
「このペースで時が過ぎるなら一人ぼっちで死ぬ可能性が 現実味を帯びて人知れずぽつんと死ぬなら夏場は嫌だななんて思ったり」
「一人ぼっちで死ぬ可能性」——これは、多くの人が心の奥底で恐れていることではないでしょうか。特に年齢を重ねるにつれて、この恐怖は現実味を帯びてきます。
そして「人知れずぽつんと死ぬなら夏場は嫌だな」という、妙にリアルな心配。
これは、遺体が腐敗しやすいから、という現実的な理由でしょう。でもこの具体性が、かえって孤独死への恐怖を生々しく伝えています。
私は、この歌詞に野田洋次郎の正直さを感じます。綺麗事を言わない。死への恐怖も、孤独への不安も、そのまま歌にする。その勇気が、この曲の強さなのです。
「『ずっと』とか『絶対』とか『一生』とかない」という、永遠への諦め

そして曲は、重要な気づきを語ります。
「きっとこれからだって想像をゆうに超えてこいや 『ずっと』とか『絶対』とか『一生』とかないのはもうわかったから せめてもう少しだけこのままで ねぇこのままでいさせて」
「『ずっと』とか『絶対』とか『一生』とかない」——この断言が、とても重要だと私は感じます。
若い頃、私たちは「永遠」を信じます。「ずっと友達だよ」「絶対変わらないよ」「一生一緒だよ」——そんな言葉を疑いもせずに口にします。
でも年を重ねると、それらが幻想だと気づきます。人は変わるし、別れるし、死ぬ。永遠なんてない。
「もうわかったから」という言葉には、その痛い学びの過程が込められています。何度も何度も、失うことで学んできた。もうわかった。でも——
「せめてもう少しだけこのままで ねぇこのままでいさせて」
永遠がないとわかっていても、せめて「もう少しだけ」このままでいたい。この切実な願いが、胸に刺さります。
永遠を求めるのではなく、「もう少しだけ」を願う。その控えめさが、かえって切ないのです。
「失ってからしか気づけないような出来損ない」という、自己認識

そして、自分への厳しい言葉が続きます。
「失ってからしか気づけないような出来損ないとわかってるんだ それなら俺は 俺をあと何回無くせば気づけるんだろう」
「失ってからしか気づけない」——これは、多くの人が抱える後悔ではないでしょうか。
大切なものは、失って初めてその価値に気づく。そんな自分を「出来損ない」と呼ぶ、野田洋次郎の厳しさ。
そして「俺をあと何回無くせば気づけるんだろう」という問い。
これは、自分を何度失っても(つまり、何度失敗しても、何度後悔しても)、また同じ過ちを繰り返してしまう人間の性を歌っているのでしょう。学ばない自分への苛立ちと、諦めが混在しています。
「君はいないのに 全然いなくなんないのは ねぇなんでなんだろう」
この「君」が誰なのか、明確には語られません。でもその「君」は、もういない。物理的にはいないのに、心の中からは全然いなくならない。
私は、この歌詞に愛する人を失った経験を感じます。死別なのか、別れなのか。いずれにせよ、その人の存在は消えないのです。
「『ただいま』も『おかえり』もない日々が人生の半分以上」という、喪失の重み

三番では、また別の角度から人生が描かれます。
「あの頃バンドを始めた仲間はほぼ辞めていたり 今の流行は歌って踊ったりヒップホップが占めていたり」
時代の変化と、仲間の離脱。バンドを始めた仲間は「ほぼ」辞めた。つまり、ほとんど残っていない。そして音楽シーンも変わっている。
「『ただいま』も『おかえり』もない日々が人生の半分以上を占め」
この一行が、私はとても重いと感じます。
「ただいま」と「おかえり」——家族や恋人がいる、温かい日常を象徴する言葉です。でもその日常が「ない日々」が、人生の半分以上を占めている。
これは、一人暮らしの孤独や、家族との別れ、あるいは忙しさによる孤立を表しているのでしょう。何かを手に入れるために、何かを失った。その現実がここには描かれています。
「『それと引き換えに手にした喜びがあるじゃねぇかよ』なんて言い聞かしたり」
自分を納得させようとする、この言葉。「なんて言い聞かしたり」という表現が、本当は納得しきれていないことを示しています。
「かつて音楽は人間の手によって作られた時代があった」という、未来への想像

そして、未来への想像が語られます。
「『かつて音楽は人間の手によって作られた時代があったんだよ』なんてさ そんな時代を前にまだ見ぬとんでもねぇ音楽を作りてぇなんざほざいたり」
AIが音楽を作る時代が来るかもしれない。そんな未来を想像しながら、それでも「とんでもねぇ音楽を作りてぇ」と願う。
「なんざほざいたり」という自嘲的な言い方が、野田洋次郎らしいと私は思います。夢を語りながら、でもそれを「ほざく」と言う。その照れ隠しが、かえって真剣さを感じさせます。
「生きてるって そういうもんだろ 生きてるって そういうもんだろ きっとこれからだって そうありたいと思っちまうのさ」
「生きてりゃ」から「生きてるって」への変化。そして「そうありたいと思っちまうのさ」という言葉。
これからも、色々あるだろう。でもそうありたい。つまり、困難があっても、生き続けたいという意志がここには表れています。
「例え『さよなら』が来るとしても 出逢えた喜びでおかしくなんだ」という、肯定

そして、重要な転換が訪れます。
「例え『さよなら』が来るとしても 出逢えた喜びでおかしくなんだ 俺は俺をあと何回だって 何回だって繋ぎ止めるよ」
永遠はない。別れは来る。でも、「出逢えた喜びでおかしくなんだ」——この肯定が、素晴らしいと私は感じます。
失うことの痛みよりも、出逢えたことの喜びの方が大きい。だから「おかしくなんだ」——つまり、正気を失うほど嬉しかったのだと。
「俺は俺をあと何回だって 何回だって繋ぎ止めるよ」
先ほどの「俺をあと何回無くせば」という絶望が、ここでは「何回だって繋ぎ止めるよ」という決意に変わっています。
何度失っても、何度後悔しても、それでも自分を繋ぎ止める。生き続ける。その強さが、ここには表れているのです。
まとめ:言葉にできない人生の重さを、それでも歌にすること

今回は、RADWIMPSの『筆舌』の歌詞に込められた想いを考察してきました。最後に、この記事のポイントをまとめてみましょう。
時間の残酷さ 「電話帳の中の人が少しずつ死んでいったり」——失うことは、ゆっくりと、でも確実に訪れる。
人生の複雑さ 幸せも不幸も、予想通りも予想外も、すべてが混在する。それが「色々ある」ということ。
永遠への諦めと、今への執着 「『ずっと』とか『絶対』とか『一生』とかない」とわかっても、「せめてもう少しだけこのままで」と願う心。
後悔を抱えながら生きること 「失ってからしか気づけない出来損ない」という自己認識と、それでも繋ぎ止める決意。
出逢いの喜びの方が大きい 別れの痛みよりも、出逢えたことの喜びが勝る。だから「おかしくなんだ」。
取り返しのつかない後悔 「死ぬ3日前連絡があったけど 出られなかった」——この重さを抱えて、それでも生きる。
『筆舌』は、RADWIMPSの中でも特に生々しく、重い曲です。美化されていない人生の現実を、そのまま歌にしている。友人の病気、孤独死への恐怖、取り返しのつかない後悔——すべてを正直に、時にユーモアを交えながら描き出しています。
でもこの曲が絶望的ではないのは、最後に「出逢えた喜びでおかしくなんだ」と歌われるからです。失うことの痛みを知っているからこそ、出逢えたことの喜びがより深く感じられる。
「生きてりゃ色々あるよな」——このシンプルすぎる言葉が、すべてを物語っています。良いことも悪いことも、予想通りのことも予想外のことも、全部ひっくるめて人生。それを受け入れて、それでも生きていく。
あなたの人生にも、「色々」ありましたか?そしてこれからも、きっと「色々」あるでしょう。でもそれが、生きているということなのかもしれません。


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