RADWIMPSの『成れの果てで鳴れ』。このタイトルを見たとき、私は言葉遊びの巧みさに唸りました。
「成れの果て」——なれのはて。何かが変化し尽くした最後の姿。ボロボロになった状態。そこで「鳴れ」と命令する。
この二つの「なれ」——「成れ」と「鳴れ」——が、曲の核心を表しているように感じます。ボロボロになっても、最悪の状態になっても、それでも音を鳴らせ。声を上げろ。そんなメッセージが、このタイトルには込められているのではないでしょうか。
「真新しくはしゃいだ朝が来て 素通りした悪い癖で」
冒頭から、憂鬱な日常が描かれます。新しい朝が来ても、それをはしゃぐことなく素通りしてしまう。その「悪い癖」——私たちの多くが持っている、喜びを感じられない感覚です。
この曲は、そんな日常に疲れた人間が、それでも何かを起こそうとする物語なのだと、私は感じています。
- 「優しくない今日にどうにかして 仕返ししようにもわかんない」という、無力感
- 「時を待っている暇はない 希望を超える速度で」という、焦燥と決意
- 「見たくなどない 痛くなどないだけで眠たい物語など」という、拒絶
- 「プラスマイナスはゼロにできてる」という、欺瞞への怒り
- 「どんなちっぽけな希望も かき集めて出来上がったのが僕だから」という、自己肯定
- 「この世界の誰にも言えない気持ちが今日も生まれては」という、孤独と信頼
- 「流れる時の上を 流されないようにと 生きながらえることに どれだけ意味があるの?」という、根源的な問い
- タイトルの真意:「成れの果て」だからこそ「鳴れ」
- まとめ:綺麗事を拒否し、それでも奇跡を起こす
「優しくない今日にどうにかして 仕返ししようにもわかんない」という、無力感

続く歌詞、
「優しくない今日にどうにかして 仕返ししようにもわかんない」
この「優しくない今日」という表現が、とてもリアルだと私は思います。
毎日が辛いわけではない。でも、優しくもない。特別悪いことがあるわけじゃないけれど、特別良いこともない。そんな中途半端な日々。
その「優しくない今日」に「仕返ししよう」と思う。でも、どうすればいいか分からない。この無力感が、現代を生きる多くの人が抱えている感覚ではないでしょうか。
「いつか僕ら 消えてゆくのに 奇跡一つ起こしもしないで 終わっていいんだっけ?」
そして、根源的な問いが投げかけられます。
私たちは、いつか必ず死ぬ。消えてゆく。それは確実な未来です。ならば、何もせずに終わっていいのか?奇跡一つ起こさずに?
この「奇跡一つ起こしもしないで」という言葉が、重要だと私は感じます。別に世界を変える必要はない。でも、小さくてもいいから、何か奇跡のようなことを起こしたい。その願いが、ここには込められているのです。
「時を待っている暇はない 希望を超える速度で」という、焦燥と決意

そしてサビで、強い決意が歌われます。
「時を待っている暇はない 希望を超える速度で 産まれてきたついでに奇跡 なんて起こしてみるよ」
「時を待っている暇はない」——この焦燥感。いつかやろう、そのうち、という先延ばしをもうやめる。今やるしかない。
「希望を超える速度で」という表現も、印象的です。希望というのは、普通は未来にあるもの。でも、その希望さえ追い越す速度で動く。つまり、希望を持つことさえ追いつかないほどの速さで行動する、ということでしょう。
「産まれてきたついでに奇跡 なんて起こしてみるよ」
この「ついでに」という言葉が、野田洋次郎らしいと私は思います。大げさに構えるのではなく、「ついで」に。肩の力を抜きながら、でも確実に何かを起こす。そのバランス感覚が素晴らしいと感じます。
「見たくなどない 痛くなどないだけで眠たい物語など」という、拒絶

そして続く歌詞で、ある種の価値観が明確に拒否されます。
「見たくなどない 痛くなどないだけで眠たい物語など」
「見たくなどない 痛くなどない」——つまり、平和で、安全で、何も起こらない物語。そんなものは「眠たい」、つまり退屈だと切り捨てるのです。
私は、この歌詞に野田洋次郎の人生観を感じます。安全で無難な人生なんていらない。痛みがあってもいい、見たくないものを見ることになってもいい。それでも、退屈よりはマシだと。
「この虚しくもない 優しくもない 星がはじめて眼にした 光が僕ら」
そして、私たちの存在が定義されます。
「虚しくもない 優しくもない 星」——つまり、この地球のことでしょう。完全に絶望的でもなく、完全に希望に満ちているわけでもない。その中途半端な星。
その星が「はじめて眼にした光が僕ら」——私たち人間が、この星が初めて見た光なのだと。
これは、人間の存在意義を語っているのではないでしょうか。この無機質な宇宙の中で、私たちは「光」として存在している。その自覚が、ここには込められているように感じます。
「プラスマイナスはゼロにできてる」という、欺瞞への怒り

二番では、社会が語る綺麗事への反発が描かれます。
「すべての『プラスマイナスはゼロにできてる』 どんな計算したらそうなんだか」
よく言われる言葉です。「幸せと不幸せは等しい」「悪いことがあれば良いこともある」——そういった、バランスを説く言葉。
でも野田洋次郎は問います。「どんな計算したらそうなんだか」と。
私も、この疑問に共感します。明らかに不公平な世界で、「プラスマイナスゼロ」なんて言葉は、苦しんでいる人への慰めにはならない。むしろ、現実から目を背けさせる言葉なのではないか、と。
「悲しみばっか顔馴染み になんのはどう説明すんのやら」
悲しみばかりが「顔馴染み」——つまり、よく会う友達のようになっている。幸せよりも、悲しみの方が身近な存在になっている。そんな状態を、どう「プラスマイナスゼロ」で説明できるのか、という皮肉です。
「小さな幸せに 気づかないだけだとか 汚ねえ戦法で 言いくるめないで」
そして、もう一つの綺麗事への反発。
「小さな幸せに気づかないだけ」——これも、よく言われる言葉です。幸せは身近にある、気づけばいい、と。
でもそれを「汚ねえ戦法」と切り捨てる。なぜなら、それは苦しんでいる人の感情を否定する言葉だからです。「気づかないお前が悪い」と言っているようなものだからです。
私は、この怒りが正当だと感じます。綺麗事で苦しみを覆い隠すのではなく、苦しみを苦しみとして認める。そこから始めなければならないのです。
「どんなちっぽけな希望も かき集めて出来上がったのが僕だから」という、自己肯定

そして、重要な自己認識が語られます。
「どんなちっぽけな希望も かき集めて出来上がったのが僕だから」
この一行が、私はとても好きです。
大きな希望なんてない。ちっぽけな希望を、必死にかき集めて、やっと自分を保っている。でも、それでいいんだ。それが自分なんだ。
この自己肯定が、綺麗事ではなく、リアルな強さを感じさせます。完璧じゃなくても、ボロボロでも、かき集めた希望で成り立っている自分を認める。それが、「成れの果て」でも「鳴れ」る理由なのです。
「『いつか君にも分かる時が必ず来るから』 そんな言葉に0コンマ1秒だって用などないや」
ここでも、綺麗事への拒絶が続きます。
「いつか分かる」——よく使われる慰めの言葉です。今は辛いかもしれないけど、いつか分かる時が来る、と。
でも「0コンマ1秒だって用などない」と断言する。今苦しんでいる時に、「いつか」なんて言葉は何の役にも立たない。今、ここで、何かが必要なのだと。
「この世界の誰にも言えない気持ちが今日も生まれては」という、孤独と信頼

そして、人間関係における矛盾が描かれます。
「この世界の誰にも言えない気持ちが今日も生まれては 思わず君だけに全てこぼしてしまいそうになるんだ」
「誰にも言えない」と思いながら、「君だけには全てこぼしてしまいそう」になる。この矛盾。
私は、この歌詞に人間の本質を感じます。完全に孤独でいることはできない。どこかで、誰かに分かってほしい、聞いてほしいと願っている。その相手が「君」なのです。
この「君」が恋人なのか、友人なのか、家族なのかは分かりません。でも、唯一信頼できる存在として、「君」がここには描かれています。
「流れる時の上を 流されないようにと 生きながらえることに どれだけ意味があるの?」という、根源的な問い

そして、曲は存在の意味への問いに至ります。
「流れる時の上を 流されないようにと 生きながらえることに どれだけ意味があるの?」
時間は流れていく。その流れに抗って、必死に生きながらえる。でも、それにどんな意味があるのか?
この問いは、答えのない問いです。でも、問わずにはいられない問いでもあります。
「抗いヤケになって 地ベタに寝転んでみて 久々見上げた空 は産まれた日と同じ姿で」
そして、ある行動が描かれます。
抗って、でもヤケになって、地面に寝転ぶ。諦めとも、休息ともつかない状態。その時、久しぶりに空を見上げる。
するとその空は、「産まれた日と同じ姿」だった。
私は、この描写に深い意味を感じます。自分は変わった。歳を取り、疲れ、諦めも覚えた。でも、空は変わっていない。産まれた日と同じ。
それは何を意味するのか?人間の営みの無意味さ?それとも、変わらないものへの安心感?おそらく、両方なのでしょう。
でもこの後、再びサビが繰り返されます。つまり、それでも「奇跡を起こしてみる」と。空が変わらなくても、自分は動く、と。
タイトルの真意:「成れの果て」だからこそ「鳴れ」

最後に、もう一度タイトルについて考えてみたいと思います。
『成れの果てで鳴れ』——なぜ「成れの果てで」なのか?
それは、完璧な状態では鳴らせないからではないでしょうか。
新品で、元気で、希望に満ちている時は、鳴らす必要がない。でも、ボロボロになって、疲れ果てて、「成れの果て」になった時——その時こそ、鳴らすべきなのです。
音を出す。声を上げる。存在を示す。
「成れの果て」——それは終わりではなく、むしろ始まりなのかもしれません。すべてを失った場所から、もう一度鳴り始める。その勇気を、このタイトルは呼びかけているのだと、私は感じます。
まとめ:綺麗事を拒否し、それでも奇跡を起こす

今回は、RADWIMPSの『成れの果てで鳴れ』の歌詞に込められた想いを考察してきました。最後に、この記事のポイントをまとめてみましょう。
無力感と焦燥感 「優しくない今日」への仕返しの方法も分からない。でも「時を待っている暇はない」という焦り。
退屈な安全への拒絶 「見たくなどない 痛くなどないだけで眠たい物語など」——安全で無難な人生への拒否。
綺麗事への怒り 「プラスマイナスはゼロ」「小さな幸せに気づかないだけ」「いつか分かる時が来る」——そんな言葉は「汚ねえ戦法」だと。
ちっぽけな希望をかき集めて生きる 大きな希望ではなく、「どんなちっぽけな希望も かき集めて出来上がったのが僕」という自己肯定。
変わらない空と、動く自分 空は産まれた日と同じでも、自分は「奇跡を起こしてみる」と動く。
成れの果てだからこそ鳴れ ボロボロになった時こそ、音を鳴らせ。声を上げろ。
『成れの果てで鳴れ』は、綺麗事を一切排した、生々しい人生讃歌です。安易な慰めも、楽観的な希望も、ここにはありません。
あるのは、「優しくもない 虚しくもない」現実と、それでも奇跡を起こそうとする意志だけ。
「産まれてきたついでに奇跡 なんて起こしてみるよ」——この「ついでに」という軽さと、「奇跡」という重さの組み合わせが、この曲の本質を表しています。
あなたは今、「成れの果て」にいますか?もしそうなら、それは鳴る時なのかもしれません。音を出す時。声を上げる時。存在を示す時。
ボロボロでいい。完璧じゃなくていい。ちっぽけな希望をかき集めた自分のまま、鳴ればいい。この曲は、そう言ってくれているのだと、私は感じています。


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